この記事のココがポイント
コロナが急速に蔓延する中で、自殺者が急増しています。生きる希望を見つけましょう。
アウシュヴィッツ強制収容所での自殺
第二次世界大戦中アウシュヴィッツ強制収容所から奇跡的に生還した、ヴィクトル・フランクルはアウシュヴィッツ強制収容所では「鉄条網に走る」ことが自殺の方法として用いられていたと言っています。
この鉄条網には高圧電流が流れており、強制収容所という生と死が同居しているような過酷な「限界状況」では現実逃避によって、人が鉄条網に飛び込んで自殺に走るということがあっても、少しもおかしくはありません。
コロナ禍でも比較的平和な世の中での自殺
しかし、コロナの問題や世界情勢の問題はありますが、現代のような比較的平和な状態で自殺を図る人が多いのはなぜなのでしょうか?
連日俳優やタレントが自殺をしたという報道を聞く、我々一般人から見れば社会的に成功して裕福な生活をしているにも関わらず自殺をするという矛盾が世間一般の人々を驚かせます。
自殺をする本当の理由は自殺をした本人しかわからないかもしれません。
SNSによる誹謗中傷が原因だとか、何らかの組織からのいじめだとか、世間一般の人間にはわからない様々な理由が考えられます。
この情報過社会の中でも、本当に自殺なのかどうかもわからないかもしれません。
しかし、一般人から見れば、それだけ人気があり有名であるということであり、うらやましい限りです。
やはり、よほどの頑強な精神を持つか、無感覚無感情な人間でない限り、芸能界では生きていけないということなのかもしれません。
自殺の原因
自殺の原因には様々なものがあります。
保険金、経済生活問題、失業、倒産というような、お金に関する自殺。
清算自殺
怨恨(恨み)による自殺
怨恨自殺
社会的孤立による自殺
コロナに罹り、誹謗中傷により世間から、村八分にされたことによる自殺等
病気によるもの
うつ病や統合失調症という身体的な要因(脳の病気等)病気による自殺
実存的欲求不満(フランクルの言葉)による自殺
フランクルの言う意味への意思の欲求不満(人生に意味がない)による自殺
どのような自殺であろうとも間違っている
このように様々な理由による自殺がありますが、どのような原因による自殺だとしても、自殺は間違っていると言わざるを得ません。たとえ身体的な(脳の病気等)理由であっても、自殺は避けなければなりません。
人間の自由は責任ある自由である
我々人間は自殺ができるほどに自由ですが、それは責任というものが付加されなければなりません。
そうでなければ本当の自由ではないのです。
自由であるということは、勝手気ままになんでもできるというものではありません。
制約されたうえでの自由でなければならないのです。
それが責任ある自由が本当の自由なのです。
そうでなければ、何をやってもいいという、いい加減かつ無責任な世界になってしまします。
しかし、何に対して人間は責任があるのでしょうか。
それは究極的には「神」に対して責任があるのです。
フランクルは無神論者にもロゴセラピー的治療を施さなければならないので神についての言及は避けていますが、その思想的背景には神の存在があるのです。
現実逃避による自殺
自殺したいというのは、苦しい現実から逃避したいという気持ちから起こってくる衝動です。
現実から逃れて自殺をするというのは、将棋をやっていて、将棋盤の上の将棋の駒を自分でバラバラしてしまうことと同じであり、なんの解決にもなりません。
今ここに生きていること自体が奇跡であるというのに、この世界から消えてしまうことがどんなに愚かなことでしょうか。
人生肯定的世界観
フランクルは、「それでも人生にイエスと言う」著作を出しており、人生肯定的世界観を主張しています。
フランクル様々な著作の中で、一貫して人生肯定的世界観を主張しており、無条件の意味による無条件の信仰による人生肯定的世界観を推奨しています。
フランクルは、どんな人生であろうとも、それでも人生にイエスと言わなければならないのであると主張しており、それが人間の責任であるとも言っています。
自殺を考える人は、まず人生肯定的世界観を持つようにしなければなりません。
人生観のコペルニクス的転回
人生否定的世界観をどのようにしたら人生肯定的世界観に転回できるのでしょうか。
まず人間の人生における問いの問題を考えなければなりません。
人間は通常、人生から何かを得られるかもしれないと思って生活しています。
大体神社に行ってお願い事をするときは、いつも人生から何かを得たい、つまり御利益を得たいと考えて神社にお参りしているのが常です。
そうではなくて、人間は自分の人生に対して何ができるのか、を問う必要があるのです。
つまり逆転の発想です、フランクルはこのことを、人生の意味へのコペルニクス転回と言っています。
人生の方から、あなたが、あなたの人生に対して何ができるのかを、問われているのだ、という考え方に変える必要があるのです。
まず自分の人生観を根本から見直し、人生には無条件の意味があり、人生の意味を自分自身の力で積極的に発見し、実現していくことに専念する必要があります。
生きる希望(意味)を発見する
この人生の意味発見の途上において、フランクルの言う、創造価値、体験価値、苦悩の価値を実現できるのです。
(3つの価値、創造価値、体験価値、苦悩の価値については幸せとは何かで述べました。)
人間は現実の現在に生きるというよりは、未来に生きているのであり、未来への希望がなくなった時、人生は停止し、停滞せざるを得ません。
生きる希望(意味)を見つけるためにはどうするのでしょうか?
それは、人生の意味を探求していく過程において、生きる希望が必然的に沸いてきて、人生を意味あるものにすることができるのです。
まず人間は、人生の無条件の意味の中から、最善の努力によって、生きる希望(意味)を見出さなければならないのです。
人間は、生きる希望(意味)を見つける責任があるのです。
意味は一人一人個別的に違います。
場所によっても変わります。
時間によっても変わります。
日々の精神的努力によって、探求しなければならないのです。
さて、人間は、生きる意味を見つける責任があると言いました。
これは誰に対して責任があるのか、と問われれば、神に対して責任があるのです。