この記事のココがポイント
人間は「体」と「心」と「精神」の3つのバランスの上で成り立っています。
体とは何か?
体とは身体です。
身体とは五体と呼ばれるものです。
五体とは身体の五つの部分で、筋、脈、肉、骨、毛皮と言う場合もあり、また一説には頭、頸、胸、手、足、さらにまた頭と両手、両足を五体と呼ぶ場合があります。
五体満足と言う言い方があります。
要するに人間がこの地球上に存在するために必要な機能が備わったものが身体です。
人間はこの身体だけで成り立っているのではないことは昔から周知の事実です。
人間は「身体」の他に「心」とか「精神」とか「魂」と言う目に見えない部分があります。
しかし、人間の体はこの目に見えない「心や精神や魂」と呼ばれる単なる入れ物に過ぎないのです。
そして、この「心や精神や魂」と呼ばれる部分がもっとも人間的な部分であり、人間的価値があるものなのです。
心身相関
心とは何かと言う前に、心身相関と言う言葉を聞いたことがあるでしょうか?
仏教では心身一如、心身医学では心身相関と言っています。
心身相関とは、心が喜怒哀楽を感じれば、身体もそれに対応する反応をするというもので、「心」と「体」は一体だというものです。
簡単に言いますと、楽しければ、体が楽しい表現をし、悲しければ、体が悲しい表現をするというものです。
また、人間の体内は、その内部環境を一定の状態に維持しようという、恒常性の働きがあります。
これを一般にホメオスタシスの原理と言っています。
具体的には、自律神経系、内分泌系、免疫系の三つのシステムが体の恒常性を維持しているのです。
詳しくは三つのシステムそれぞれの専門分野の学術研究で明らかにされています。
人間に過度の身体的、心理的ストレスを与えると、このホメオスタシスの原理が崩れ、様々な身体的、心理的疾患が現れます。
これはらは、心身相関(心と体は一体であること)という事実によるものなのです。
つまり、「心」と「体」は分離できず一体であるということなのです。
心とは何か?
さて、「心」とは一体何なのでしょう、日本の心理学者、宮城音弥は「心とは神経系統によって外界に適応する現象である。」(宮城音弥「心理学入門」岩波書店)と言っています。
このことは、「心」で外界から感じたものが、神経系統を通して「体」に影響を及ぼしているということです。
以前は、脳の中で「心」の信号が、どのようにして「体」を調節するしくみに作用するのかわからなかったのですが、最近の研究から「心身相関」の神経伝達回路(日本医療研究開発機構より)が発見されました。
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これでますます、心身相関の基本的事実が科学的に証明されたわけです。
心と体は分離不可能なのであり、心とは心身相関の基本的事実において、身体にも影響をもたらす現象なのです。
心と体は、共にホメオスタシスの原理で統合され、外の世界から情報を取り入れ、神経系統によって、外界に順応していく戸言う機能であり、人間はほとんど、どんな状況にでも慣れて、順応してしまう動物なのです。
「心身一如」や「心身統一」という言葉は、心と体は一体でありこの二つのバランスを取るということなのです。
この心身相関という基本的事実が、現実の世界を生きていくうえで、必要な人間の基本的な能力なのであり、心と体は切っても切れないものなのです。
心と体と精神との関係
人間には心と体の他に「精神」と言うものがあります。
人間の精神とはいったい何なのでしょうか?
この精神は「魂」と言う言い方をすることもあります。
心と体は心身相関で繋がっています。
しかし、人間の「精神」は別の次元にあると言っても過言ではありません。
精神は遺伝的な内在法則によって、一義的に規定されませんし、環境作用による学習によって経験的に形成されもしません。
精神は、時間と空間を超越していて、心と体の一体性とは、融通無縁の絶対的自由の立場をとっています。
そこには、因果律の支配は認められません。
そして、秩序の到底及ぶところではないのです。
精神とはフランクルに言わせると、絶望を勝利に転換できる能力を備えているものなのです。
フランクルは精神を説明する場合、独自の存在論を提唱しています、それが次元的存在論です
関連記事・・・フランクルの次元的存在論
フランクルは精神とは、最も人間的な部分であり、人間存在において、何者にも制約されない部分であると言っています。
私の考えでは、精神は人間の脳の中にある第三の眼と呼ばれる、睡眠ホルモンであるメラトニンを分泌する脳器官である「松果体」が重要なカギを握っているように思われます。
古代宇宙飛行士説による人間を作ったアヌンナキはこの松果体の中に精神を設置したのだと思うのです。
また「精神」は「魂」と同じものであり、人間一人一人の備わった唯一無二のものなのです。
この精神には底知れない人間の能力が備わっており、神の領域に近い能力を発揮することが出来ます。
精神や魂は目に見えないし、科学では捉えることはできないので、様々な解釈の仕方で表現されているのが現状です。
この精神の解釈の仕方によってはオウム真理教のような教義が出来てしまうのです。
精神の真実とは一体何なのでしょうか?
私の解釈では、実存哲学の思想と同じように、基本は人間一人一人皆異なっているものだと思います。
それは、個性であり、「個性」と呼ばれているものが「精神」あり「魂」なのです。
実存哲学も実存哲学者の数だけ実存哲学があると言われています。
実存思想は主体的・個別的現実と真実を重視する未完結な思想であるので多様性があって当然なのです。
精神も一人一人異なった独自な精神を持っているのです。
人間の精神も一人一人の今ここでの、その時その時の現実に起こっている、独自的で一回的な、実存的精神的事実というものが最も重要なのです。
そして、最も人間的で重要な部分が「精神」なのです。
精神の定義
しかし勝手気ままな解釈により精神が、定義されてはなりません、そこには自由な解釈はありますが、責任ある解釈の仕方をしなければなりません。
神に対する責任ある解釈をしなければならないのです。
責任ある解釈でなければ、オウム真理教のような教義の中の精神の解釈になってしまうのです。
言い換えれば神の審判を仰いで人間の精神を解釈しなければならないということなのです。
フランクルは、人間の精神には大きな力があるとして、この精神の力を「精神の反抗力」(精神の反発力、精神的拮抗作用、精神の抵抗力などと呼ぶ場合がある)と言ってこれを利用してロゴセラピー(実存分析)と呼ばれる心理療法を試みています。
この精神の反抗力はアウシュビッツ強制収容所の中でも発揮され、囚人がガス室の中に、毅然とした態度で「神に栄光あれ」と言って、精神の反抗力を発揮し入っていく人々を実際にフランクルは見ています。
また、特に責任感を持っており、ある何か、あるいは誰かのために生きなければならないという、強い意志を持っているような人間も、この精神の反抗力を持っていて、アウシュビッツ強制収容所の中でも生き延びることが出来たとフランクルは言っています。
フランクルはこの精神の反抗力を信じており、この精神の反抗力で絶望を勝利に導くことができると言っているのです。
この「精神の反抗力」を使う場合は、変えられない運命の場合だけであり、変えることが出来る運命、この場合は初めから運命とは言わないし、精神の反抗力をわざわざ、煩わせる必要はないとフランクルは述べていて、この比較的平和な現代では頻繁には使わないかもしれないのです。
正しい決断による行動
今のコロナ禍でも、この比較的平和の世の中では精神という言葉は人間にとっては煩わしいものに違いありません、人間は精神という言葉に飽き飽きしています。
オリンピックに出るから体を鍛えるということはありますが、精神や魂を鍛えるということは修行僧でもない限り、あまり行わないでしょう。
私は、精神の反抗力などないと言っている人間は、責任感がないのか、あるいは精神の倦怠が起こっていると言っていいと思うのです。
人間の精神を鍛える方法があります。
それは、人が生きている日常の中で、その時その時に、自分の神である良心に問いかけ、常に正しい決断をして正しい行動ができるように訓練することです。
何が正しい決断かは、その時その時の状況によって違ってくるので、人によって異なりますが、常に努力して、その時その時に一番正しい行動と、正しい決断ができるように心がけることです。
そしてその正しい決断と正しい行動は一つしかないのです(フランクル)。
その時に正しい決断と正しい行動ができたかどうかは後からわかるのですが、分かったときに、正しい決断と行動ができたかどうかを再検証して、間違っていればそれを修正して、次の決断と行動につなげるようにしていくということが、精神の次元的上昇において重要なプロセスなのです。