ココがポイント
本当の勇気とは何かについて考察します。
「人間の意味への意志が目指すもの」というブログ投稿において、勇気はモチベーション50%の時に最も湧くということを考察しました。
それでは、本当の勇気とは何でしょうか?
本当の勇気とは何でしょうか?
このブログ記事において勇気について幾度となく考察してきました。
個人心理学のアドラーも「勇気」を説いています。(アドラーの勇気については、また別の記事で考察したいと思います。)
しかし、本当の勇気と言うのは何なのでしょうか?
関連記事・・・エネルギーレベル200を目指せ!、コイントスに見る人間のモチベーション
フランクルは完全な勇気について次のように言っています。
例えば、ラ・ロシュフーコーには、次のような定義が見られます。「完全な勇気とは、みんなが見ていないところですることにある。」また、この定義とともに、スウェーデンの新聞が発表した、道徳性についての見事な定義を挙げるべきでしょう。その定義によれば、道徳的模範として次のような男性の例が挙げられます。その男性は、盲目の物乞いの前を通りがかり、一枚の高価な硬貨を物乞いの帽子の中に投げ入れました。そして、他人に見られないように自分の帽子を脱いでお辞儀をしたのです。この身振りが意味しているのは、ここで一人の人間が、まったく無意味に思われることをしているけれども、実際のところは利益にならないことをしているにすぎないということにほかなりません。それは、あらゆる日和見主義、功利主義、実用主義から程遠いものなのです。この例は、あらゆる結果論理学に反対する論理学論文の正しさをそっくり請け合うものと言ってよいでしょう。
苦悩する人間 V・E・フランクル 春秋社 p192
このように、フランクルは誰も見ていないところで、道徳的に模範となるようなことを行うことができることが本当の勇気だと言っています。
私たちは、理想論からすれば、川や海において、泳げなくても溺れている人を見たらすぐに飛び込んで、救おうとしなければならないのです。
しかも誰も見ていなくともです。
しかし、このような行為は理想論であり、普通の並の人間にはできることではないかもしれません。
人間は、模範的行為の極僅かでもいいから、自分が自分の良心との対話の中で感じた模範的な行動を実行する必要があるのです。
人間は神にはなれないけれど、神にできる限り近づい行くことはできるのです。
そのために私たち人間は、普段から道徳的な行為を行うことができるよう、スポーツ選手のように精神的な向上のために、精神的な訓練をしなければならないのです。
道徳的模範は程度の差はありますが、日ごろから小さな「善」を積み重ねながら少しずつでも、道徳的模範となる行為ができるように修練していかなければならないのです。
善い行いは、善い行いを繰り返していくうちに、本当の善い行いとなっていくのです。
これが精神的次元上昇への道なのですから。
模範者は少数派です
模範者になると言う事はとても大変なことです。
しかも何も考えずの躊躇することもなく、模範的な行動に移せる人間はあまりに少ないでしょう。
たしかに、模範になる人間はわずかです。自分の存在を通して働きかけることができる人間、またじっさいそうするだろう人間はわずかです。私たちの悲観主義はそれを知っています。しかしまさしく、模範になる人間が少ないということが、現代の活動主義の本質をなしているのです。まさしく模範になる人間が少ないために、その少数派はとほうもない責任を担っているのです。ある古い神話は、世界の成否は、その時代に本当に正しい人間が三十六人いるかどうかにかかっているといいきっています。たった三十六人です。消えてしまいそうなぐらいの少ない人数です。それでも、世界が道徳的に成り立つことが保証されるのです。
それでも人生にイエスと言う V・E・フランクル 春秋社 p15
模範となるものは勇気が必要ですが、本当の勇気はみんなの見ていないところで道徳的模範となる行為ができるかどうかです。
フランクルは少数派による模範行為はどのような書物や講演による言葉よりも決定的であるとしています。
・・・この決断にあたって決定的な役割を演じたものがあります。それは、他者の実存、他者の存在、つまり他者が示す模範です。それは、なにを語りなにを書きしるすよりも効果がありました。というのも、存在はいつも、言葉より決定的だからです。
それでも人生にイエスと言う V・E・フランクル 春秋社 p14
フランクルは、人々が模範的な行動に移す決断をするにあたって、他者の模範的な行動がとても重要であることを強調しています。
ある一人の模範的な行動は、他の人々の心に響き、波紋を広げることになるのです。
模範的な人間になるには、日々の生活の中で、自分の「良心」と語り合い、「今ここで」の最適な行動をする修練を行っていかなければならないのです。
良心の修練
フランクルは伝統が崩壊した現代において、自分の「良心」と対話し自分自身を鍛え上げていかなければならないとしているのです。
今日、われわれは伝統を粉砕し消滅させる時代に生きている。独自の意味を見いだすことで新しい価値が創造されるのではなく、反対のことが起こっている。普遍的な価値がおとろえかけている。これが、ますます多くの人が目標喪失と空虚、あるいは私の言う実存的空虚の感情にとらわれる理由なのである。しかし、たとえもしすべての普遍的価値が消えてしまっても、独自な意味は伝統の消滅によっては手付かずになっているので、人生は以前として意味を持っているのである。たしかに、人間は価値をもたない時代においてさえ意味を発見すべきであるならば、人間は良心の十分な能力をそなえていなければならない。それゆえ、今日のような時代すなわち実存的空虚の時代には、教育の第一の仕事は伝統と知識の伝達に満足することではなく、独自な価値を見いだすのを可能にする能力を修練することなのである。今日の教育は、伝統の線に沿って進むことではなく、独立した真なる決定を下す能力を引き出さねばならない。十戒が無条件の妥当性を失いつつあるように見える時代においては、人間は彼の人生成り立たせる何万という独自な状況から生ずる、何万と言う戒めに対して耳を傾けることを、以前よりもっと学習しなければならない。そしてその戒めに関して、人間は自分の良心と照らし合わせ、自分の良心をよりどころとしなければならない。
意味への意志 V・E・フランクル ブレーン出版 p77
今日私たちは伝統が崩壊し消え去る時代に生きています。それと同時に、独自な意味が見出されることで新たな価値が創造されるのではなく、その反対の事象が起きています。普遍的な価値が衰えつつあるのです。それが、ますます人々が目標のなさや無意味さ、あるいは私が実存的空虚と言っている感覚にとらわれている理由です。しかし、たとえあらゆる普遍的価値が失われたとしても、独自な意味は伝統の消滅の影響を受けることなくとどまるので、人生には依然として意味があります。確かに、人は〔確固とした〕価値の存在しない時代においてさえ意味を見つけ出すべきならば、人は十分な良心の能力を身に着けていなければなりません。それゆえ、われらの時代、いわば実存的空虚の時代にあって、教育の第一の任務は、伝統や知識を伝えることに満足するのではなく、人間が独自な価値を発見できるようになる能力をみがくことにあるのです。今日、教育は伝統の系譜に沿って進む立場にはなく、独立した真正な決定ができる能力を引き出さねばなりません。十戒が無条件の正当性を失ったと思われる時代にあって人は、人生成り立たせている無数の独自な状況から生じる無数の戒律に対して耳をそばだてることを、以前にもまして学ばなければなりません。
絶望から希望を導くために V・E・フランクル 青土社 (意味への意志 ブレーン出版の増補版)
要するに、十分な良心の能力を身に着けるために、自分の精神的次元を上昇させなければならないと言う事ができるのです。
関連記事・・・高次元の存在と神
良心は人間の意味発見の感覚器官であることを他のブログ記事で考察しました。
関連記事・・・意味への意志
人間の自分の人生の意味を発見するために良心と言う人生の意味の感覚器官をもっと鍛えなければなりません。
その意味でマインドフルネス瞑想などは有効的な良心の鍛錬法と言えます。
関連記事・・・マインドフルネスやメタ認知は、自己超越の能力です。
人間が有限な理由
人間は長くても100年余りの年月しか生きることはできないように作られています。
もし人間に死が無かったとしたらどうなるでしょうか?
死が訪れないならば今ここで何かをする必要がなくなります。
死と言う限界があるから、今何かを行う責任があるのです。
しかし、この何かはどんなことでも好き勝手に行うというものではありません
この何かは自由で勝手気ままに行われる何かではないのです。
この何かは、責任というものが伴っていなければならないのです。
この責任はだれに対する責任なのでしょうか?
究極は「神に対する責任」というものを考えなければなりません。
だから、自分がこの短い人生の中で、自分の生きる意味を発見しなければならないという責任があるのです。
人間に死が訪れるという事実があるからこそ、一日一日を最善の努力をして生きていかなければならないのです。
人生に対するコペルニクス的転回
人は、度々「自分の人生から何も得られないので、人生は空しく、人生には全く意味はない」と感じることがあります。
フランクルは、人生の意味への問いについて次のように述べています。
・・・第一に、実存分析は、人生の意味への問いを弁証法的に回転させます。つまり、人生の意味は人間の方から問われてはならず、むしろそれと全く反対に、人生そのものが人間に問うているのだ、と実存分析は主張します。第二に、人生がわれわれに提出する問いは、われわれが自らの人生に責任をもつことによってのみ答えることができ、と実存分析は指摘します。それゆえ、われわれがなさねばならない答えは、行為による答えであります。しかしそれだけではありません。その答えが具体的なものでありうるのは、ただ、われわれがそのつど自分の人生、そのつどの自分の現存在に責任を持つこと、今・ここに入る自分の現存在に責任を持つことによってのみであります。この現存在の責任性、すなわち、そのまったき具体性と、その都度の人格ないしそのつどの状況への具体的関係性とにおける現存在の責任性こそ、まさに問われている現存在の意味をなすものなのです。つまり、責任性存在が人間存在の意味なのであります。
意味への意志 V・E・フランクル 春秋社 p64
フランクルは人間は人性に対して問うのではなく、つまり人生から「何が得られる」かではなく、自分は人生に対して「何ができるのか」と志向を変えることを提唱しています。
人間の人生の意味への問いは、人生の方から問われているものなのです。
フランクルはこれをコペルニクス的転回と言っています。
人生はには制限があります。
もし人生が永遠なものであったなら、人間は時間はいくらでもあるので、ある行いを今すぐに行わなくてもいいことになってしまいます。
人間は精神的な怠惰になってしまうのです。
人間は限られた時間だからこそ、その中で自分は自分の人生に対して何ができるのかを考えながら、一日一日の「今ここで」を常に意識し自分の人生において、自分ができる最善の努力によって、自分の人生に答えていかなければならないのです。
人間の人生は有限であり、弱くて、しかも脆いものです。
しかし、人間の精神的次元にはフランクルの言う「精神の反抗力」があり、あらゆる状況を、精神的な態度変容によって切り抜ける術を持っているのです。
人間は有限であるから、一日一日を最善を尽くして生きていくという「神に対する責任がある」のです。
人間は「今ここで」をできる限り最善を尽くして生きなければなりません。
人間が有限である理由は、「一日一日を最善を尽くして生きていく」ためなのです。
すなわち、人間は一日一日を最善を尽くして生きて、精神的次元上昇の道を精進するために、有限な存在として神が作ったということなのです。