ココがポイント
人間の意志とは何なのでしょうか?
自由意思は錯覚であり幻想であるということが最近の科学的実験によって証明されてしまった!!・・・ようです。
人間の自由意思とはいったい何なのでしょうか?
自由意志の実験
1983年ベンジャミン・リベットという生理学者が、人間の自由意思に対する実験を行いました。
まず、被検者に脳の電気信号測定装置を付け、被験者に手首を動かしてもらい、脳の電気信号を測定しました。
人間は、体を動かすときには、実際に動く少し前に、筋肉を動かす指令的電気信号が脳から出ることが知られています。
リベットの自由意志の実験結果
普通に考えれば、手首が動くまでのプロセスは下記の順番になるはずです。
- 手首を動かそうとする意識
- 脳が手首を動かすための電気信号の発動
- 手首が実際に動く
しかしリベットによる実験結果は次のようになりました。
- 脳が手首を動かすための電気信号を出す
- 手首を動かそうとする意識
- 手首が実際に動く
この実験結果は手首を動かそうという意識より前に、脳から手首を動かすための電気信号が出ており、人間が手を動かそうと意識したから手首が動いたのではないという実験結果になったのです。
つまり人間は自分の意志ではない「何か」によって既に脳内に電気信号が出されて動かされていたということになるのです。
この何かは現在の科学では証明できず、まだはっきりとした根拠は明らかになってはいません。
この事実によって人間の自由意思は幻想であると結論づけた結果を聞かされた人たちの間では、自分の行動に責任を感じなくなるという事実が現れました。
これは当然のことであり、行動は自分の意志ではないから行動に関する責任はないと考える人が出てきてしまうのです。
このことは、還元主義の実験結果のよって、決定論的ニヒリズムを助長してしまったためです。
関連記事・・・還元主義によるニヒリズム
ニヒリズムは人間をモノ化してしまい、人間の自由と責任を剥奪してしまうのです。
リベットによるさらなる実験
しかし、リベットはこの結果によって、人間の自由意思はないことになることを否定したかったので、実験を繰り返し、
- 手首を動かそうとする意識
- 手首が実際に動く
この「手首を動かそうとする意識」から「手首が実際に動く」までの間、僅か0.2秒前なら行動を拒否できることがわかったのです。人間にはわずかでも拒否権がある、つまり行動を拒否できる自由意思はあることになるのです。
たかが僅か0.2秒だと思われるかもしれませんが、この僅か0.2秒で人間は行為を拒否できるのです。
この0.2秒は、0.2秒しかないと思うのか、0.2秒もあると思うのか、によって意味が違ってきます。
精神的に病んでいるひとの場合には0.2秒しかないとなり、精神的次元上昇にある人にとっては、0.2秒もあるという解釈になるのです。
リベットの実験は人間の精神的次元が考慮されていない
リベットの実験結果から人間の自由意思は0.2秒しか、それも行動を拒否できる権利しかないように見えます。
しかし、この実験には少し疑問が残ります。
人間には精神的次元という人間独自の次元があり、リベットの実験にはこの精神的次元が考慮されていないのです。
自分の意志ではない「何か」は実際のところはっきりとした答えはありませんが、人間が身体的心理的次元という因果律に支配されているいわば人間のロボットである部分のみを考察している限りにおいては答えは出ないと思われます。
人間は身体的心理的次元を超えて精神的次元というものを考慮しない限り人間の全体像は見えてこないのです。
フランクルによる精神的次元
リベットの実験には人間は内部完結型の存在であるという前提において実験されたものであり、本当の人間は人間の外部にある客観的精神的ロゴスの世界を志向するという人間独自の領域を見逃しているのです。
フランクルによると人間は精神的次元という因果律が到底及ばない別の次元があるとしています。
人間が現在存在している三次元の身体的心理的な部分これは、因果律に支配されており原因と結果によって決定されている部分です。
しかし、人間には因果律とは別の、目的論的次元である、精神的次元というものがあるのです。
人間は自分自身以外のものを志向する存在
さて人間はの五感は人間自身以外のものを感じ取るためにできていることをご存知でしょうか?
人間は自分自身のことのためにあるのではなく、自分自身以外のものを認識しその目的のために生きているというのが現実です。
人間は自分自身のことを考えているときは、大体は病気であることの方が多いのです。
リベットの実験は身体的次元と心理的次元の世界である三次元の世界で考えているので、人間に「自由意思というものがない」という結果になってしまっているのです。
本来、人間は何かを志向する存在であり、ある志向された対象において考えなければ、人間の意識に関するすべての事柄は失敗に終わるのです。
志向された何かとは、ある何か、ある物や、ある人や、ある自然や、ある神等の対象物であり、人間の意識がこれらに向けられた視点が、本来の人間の姿なのであり意識なのです。
つまり、人間は自分自身を超えたもの、即ち自己を超越したものを志向する存在であるということが真実なのです。
フランクルは、
私が言いたいことは、人間存在の自己超越性によって、人間であることは常に、それ自身以外の何かかだれかに向けられており、めざしていることを意味する。ということである。
意味への意志 V・E・フランクル ブレーン出版 p28
と言いますのも、人間存在の自己超越的性質ゆえに、人間であることは常に他の大切な何かあるいは大切な誰かに対して方向づけれれて志向されている、ということを意味しているからです。
絶望から希望を導くために V・E・フランクル 青土社 (意味への意志 V・E・フランクル ブレーン出版増補版)
と言っており、「人間であることは常に、それ自身以外の何かかだれかに向けられており、めざしていることを意味する。」としています。
フランクルは、このように人間の「自己超越性」ということを常に強調しています。
人間は自己超越の能力により精神的次元にを通り、自分自身以外の外部のロゴス(客観的意味の世界)を志向する意志、即ちフランクルの言う意味への意志によって、ある何かやあるだれかに対して目的を持ち、それを精神的努力である愛によって、そこにある人生の意味を発見することを目的しなければなりません。
そういった目的論的次元、フランクルの言うロゴスの次元を包括して考えなければならないのです。
関連記事・・・フランクルの次元的存在論、量子力学とスピリチュアルと愛
人間の自由意思とは、生物学的、心理学的、社会学的にいかに制約されていようと、それらの制約から「どのような態度を取るか」という人間の精神的態度変容という人間の自由意思は制約することはできないのです。
要するに人間の意志の自由とは、制約を受けたことを前提にした、責任ある自由意思なのです。
リベットの実験には、人間の自己超越の能力が考慮されていないのです。
人間の自己超越性は、量子コンピューターでも解明することはできないでしょう。
なぜなら次元が違うのですから。
人間にはある意味ロボットであるが 、精神的次元も存在する
しかし人間にはロボットいう一面はあるけれど、それとは別に精神的次元が存在するのです。
人間はただのロボットではないのです。
専門的な科学者や哲学者は人間のある要素的な一部分を突き詰めすぎて、意識は幻想であるとか、人間はロボットであるとか、人間はコンピューターであるとか、世界はホログラムに過ぎない、とか言うように、ある一つの要素に還元してしまい、還元主義に陥ってニヒリズムになってしまっているのです。
還元主義には何か欠けているものがあります。
ひとつの木を見て森を見ないのです。
それは客観的に精神的なロゴスの見落としと、ロゴスに対する主観的精神的努力である愛による認識作用の見逃しなのです。
ニヒリストは精神的な怠惰に陥っており、精神の倦怠を引き起こしているのだと思うのです。
ニヒリズムからフランクルの言う精神の反抗力は生まれないのです。
観覧記事・・・体と心と精神について
ここに精神的次元上昇への道を促していく意味があるのです。
人間はフランクルの言うように、ロゴスの世界(客観的意味の世界)に向かって開かれており、すべての世界の人々はそれに向かって努力すれば、人生の意味がきっと見つかるのです。
人間には本当に自由意思はないのか?(フランクルのロゴセラピーから)
まず、ここでフランクルのロゴセラピー生の3つの哲学について言及したいと思います。
フランクルの思想は3つの哲学から成り立っています。
- 意志の自由
- 意味への意志
- 生命の意味
意志の自由
フランクルは自由意思について次のように述べています。
いうまでもなく、人間という有限な存在の自由は制約内における自由である。人は本来、生物学的であれ、心理学的であれ、社会学的であれ、状況に縛られている。だが人間はこうした状況に立ち向かう自由を持ち、同時にこうした自由を常に保持するのである。即ち人は状況に対する態度を選び取る自由を持っている。人間は、身体的及び心理的現象とは明確に区別される精神的現象の次元に入るのである。人間は世界に対してばかりでなく、自分自身に対しても立ち向かうことができる。人間とは自らを反省するばかりでなく、自分を拒絶することさえできる存在なのである。人間だけが自らの行為の審判者であり得るのだ。一口にいえば自意識や良心を持って互いに関連しあう特殊な人間現象は、生物学的心理学的平面を超えて精神の領域に入り込み、そこで自分自身を自ら引き離すことができるのが人間であると解釈して初めて、理解しうるものなのである。
現代人の病 V・E・フランクル 丸善株式会社 p3
つまり、人間の自由意思は生物学、心理学、社会学等すべてにおいて制約されていることを前提に意志の自由を解釈しています。
そして、人間は自分自身を引き離すことができる存在であるとしています。
この自分自身を引き離すという人間の特徴的な現象(フランクルはこの現象を自己超越と言っています)は、フランクルの人間の存在論である、「次元的存在論」から考えなければわからないのです。
フランクルは人間には、身体的次元、心理的次元の他に身体的次元、心理的次元とはかけ離れた精神的次元があると主張しています。
この精神的次元であれば、人間の制約された人間の自由意思である、行為の拒否権である0.2秒を発動するのに十分な時間なのです。
そして、人間は自分自身を引き離すことができる存在であるとしています。この自分自身を引き離すという人間の特徴的な現象は、フランクルの人間の存在論である、「次元的存在論」から考えなければわからないのです。
フランクルは精神的次元とは身体的次元、心理的次元とはかけ離れたものであると主張しています。
この精神的次元であれば、人間の制約された人間の自由意思である、行為の拒否権である0.2秒を発動するのに十分な時間なのです。
0.2秒の自由意思
この0.2秒というのは、人間の精神の反抗力を発揮するには十分な時間であるのです。
人間は自分ではどうすることもできないような状況に立たされた時、日ごろの鍛錬によって、フランクルの言う「精神の反抗力」が発動します。
この精神の反抗力は0.2秒もあれば発動することが可能なのです。
この精神の反抗力こそが本当の人間の自由意思なのです。
例えば、喧嘩をして右の頬をひっぱたかれたとします。普通はただ泣きわめくばかりというところでしょうが、しかし精神的な態度変容をして、次の行動として0.2秒で左の頬を自ら突き出すことはできるのではないでしょうか。
これは随所に主となるという禅の言葉を形にしたもので、主体性を持った行動を示すものです。
また、川で溺れている人を見つけて、飛び込んで助けるという行為は0.2秒もあれば行動できてしまうのです。
さて、上の二つの行動は、世間一般にはすぐに、誰にでもできる行為とは思われないでしょう。
なぜなら、これら二つの行動は、生まれてすぐにできる行動ではないからです。
この二人の行動には、過去に何度か同じような場面に出くわして、過去にはできなかったが、何度か精神的態度変容を行おうと努力してやっとできるようになり、習慣的にできるようになっていったのです。
フランクルは、
行為は、要するに、可能性から現実性への変化であること、つまり一つの可能態を現実態へと移すことであることがわかった。とくに道徳的行為についていうと、道徳的に行動するひとは道徳的行為をそのまま一回限りにしておかない。かれはさらに道徳的行為を行うことによって、現実態を習性態に変える。そこで道徳的行為であったものが道徳的態度となる。だからいって道徳的業績は低く評価されるのではなく、いまやより高く評価されるのである。
苦悩の存在論 V・E・フランクル 新泉社 p112
と言っています。
川で溺れている人を見つけて、飛び込んで助けるという行為を行った人は一度は飛び込むという態度を決断し、その決断を何回か下すうちに道徳的態度が0.2秒でできるようになっていったのです。
何か運命的に自分ではどうすることもできない状態に立たされた時、日ごろの鍛錬によって精神の反抗力は0.2秒もあればすぐに発動できるのです。
しかし、その発動のためには、様々な人間の苦悩に対する精神的努力が積み重なってできるようになっていくと言うことなのです。
人間は、スポーツ選手やオリンピック選手のように精神的努力をし精神的次元を上げていかなければならないのです。
オリンピック選手であっても精神的努力によって0.2秒の世界を制覇するために日々精進しているのです。
このことこそが「精神的次元上昇への道」なのです。
この0.2秒の精神の反抗力というものは実際に行動に移す過程の時間というものではなく、自分自身の川で溺れている人を見つけて、飛び込んで助ける、という精神的な態度の変容する内部意識の時間だと考えるのです。
結局人間の意志の自由とは?
フランクルは、人間の自由意思について
いうまでもなく、人間という有限な存在者の自由は制約内における自由である。人は生来、生物学的であれ、心理学的にであれ、社会学的であれ、状況に縛られている。だが人間はこうした状況に立ち向かう自由を持ち、同時にこうした自由を常に保持するのである。即ち人は状況に対する態度を選び取る自由を持っている。
現代人の病 丸善株式会社 p3
と言っており、人がある状況に対する態度の変容ということが、人間の自由意思ということなのです。
その態度変容は努力(精神の反抗力)によって0.2秒で可能なのです。
関連記事・・・苦悩することは業績である
意味への意志
フランクルの哲学のなかで、意味への意志というものがあります。
フランクルの「意味への意志」というのは人生の意味を実現するという欲求です。
フランクルは人間には、フロイトの人間の動機づけの「快楽への意志」とアドラーの人間の動機づけの「権力への意志」があり、これらだけが人間の動機づけではなく、これらは人間の本来ある「意味への意志」の派生物であると言っています。
フランクルによれば、「快楽への意志」は意味実現の結果であるということです。
快楽は人間の人生の意味が実現できた時に結果として発生するのです。
また「権力の意志」は人生の意味実現という目的のための手段であり、権力そのものは目的とすることは間違っているのです。
人は人生の意味を実現するという目的のためにある程度の権力を持ち、人生の目的を達成したときにはじめて快楽を得ることができるのです。
人間の快楽への欲求と権力への欲求は目的にはできません。
結局これら快楽と権力の二つの欲求は自分自身に向けられたものです。
しかし、人間は自分のために存在するのではないということを重要視しなければならないのです。
「快楽への意志」と「権力への意志」に対して「意味への意志」は自分以外の客観的精神的意味の世界つまりロゴスの世界を目指しています。
「意味への意志」は人間の本来備わっている自己超越の世界を目指すという精神的次元の志向性を示しているのです。
生命の意味
フランクルは、人間の人生において3つの価値を実現すべきだと言っていま
- 創造価値
- 体験価値
- 態度価値
創造価値
何かを創り出すことによって得られる価値
体験価値
何かを体験して得られる価値
態度価値
自分に置かれた状況(運命)に対してどのような態度を取るかという態度価値
この態度価値こそが人間の最も高貴な価値のあるもので、精神的次元による精神の反抗力で行われた行為の価値なのです。
人が変えることのできない運命に対して自由意思による精神の反抗力で0.2秒で態度変容をする行為、これこそが人間の本当の自由意思なのです。
自由意思がないと言っている人は精神的に病んでいる
自由意思がないと言っている人は自分の意識が自分自身にしか向いていないのです。
フランクルは、
人は価値を認識し実現するものであると私は言いたい。人は何ものかのため、あるいは誰かのため、即ち或る大義のため、或いは友のため、或は「神のため」先んず自分を失うというところまで達して始めて逆説的に自分自身を発見するのである。人は、もし自分を超えた、つまり自分の上にある何もかに自分をささげてっしまわない限り、自分自身その主体性に対する努力は失敗してしまうよう運命づけられているのである。ヤスパースは、こうしたことを次のように表現している。「人間とは何ぞや。人間は、自分自身のものとなした大義名分を通して人間となる。」
現代人の病 V・E・フランクル 丸善 p100
と言っており人間が自分自身以外のものに対して努力し、志向する存在であることを強調しています。
自由意思がないと言っている、意識が自分にしか向いていない人間は結局、神経症という病気か、LSDといった薬物に侵されているような人に人間、または精神の倦怠に落ちいている精神的に病んでいる人間なのです。
つまり、精神的次元上昇にはほど遠いのです。