ココがポイント
フランクルが強制収容所で実際に体験し、見てきた「人間とは一体何だったのか?」
強制収容所で明らかにされた人間の精神的な決断
フランクルは、強制収容所という「限界状況」の中で、人間と言うものは一体何なのかを徹底的に身をもって知ることになりました。
まずフランクルは、強制収容所の中での囚人が、ふたつの可能性を持っていることを明らかにしました。。
その著書の文面を見てみましょう。
・・・われわれが強制収容所という、この生きた実験室、この実験の実験場において目撃し、かつ実証したもの、それは、われわれの仲間のある者はブタのように行動し、また他の者は聖人のようにふるまったという事実です。人間は自らのうちに両方の可能性を持っているのです。そのいずれかが現実化されるかは、(素質や環境といった)条件にではなく、人間の決断にかかっているのです。
われわれの世代は、人間が現実にどのような存在であるかを知るようになった点でまことに現実的であります。要するに、人間とは、アウシュヴィッツのガス室を発明した存在です。けれども、人間とはまた、主の祈りや「シェマー・イスラエル」を唱えながら、そのガス室に頭を上げて入っていった存在でもあります。
意味による癒し ロゴセラピー入門 V・E・フランクル 春秋社 p60
フランクルは、囚人の中の、或る者は、家畜のブタのように成り、或る者はガス室の中に祈りの言葉を唱えながら、頭を上げて毅然とした態度で入っていった者もいた、と言っています。
フランクルは、収容所生活の中でブタになるか、聖者になるのかは、遺伝や素質や環境ではなく、自分自身の内的な、精神的な決断によって決まるとしています。
フランクルはしばしば、ヤスパースの言葉を借りて人間とは「決断する存在」であると言っています。
人間は次の瞬間にどのようになるか、自分の自由と責任において、自らの精神的な態度を決めるのです。
そのように人間は造られているのです。
強制収容所での被収容者(親衛隊)の善意
フランクルが一番驚かされ、感動したのは、強制収容所の中で、親衛隊の中にも、少数ではあるけれど、囚人に対して、一片のパンや薬などをこっそり渡していた人間がいたという事実でした。
フランクル自身も現場監督から小さいパンを分け与えてもらったのです。
さらに、その現場監督は、フランクルに人間らしい言葉、と人間らしいまなざしを示しました。
このことがフランクルに「人間とは何か」を知るうえでの大きな影響を与えたのです。
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人間は二つの種族の人間しかいない
フランクルは、人間には二つの種類しかいないと言っています。
このことは、フランクルは様々な著書の中で何回となく様々な言葉で述べられています。
それほど、強制収容所での出来事が、彼の人生哲学に大きな影響を及ぼしており、また世界中の人々の心を打っているのだと思います。
その引用文を列挙してみました。
・・・ただ二つの「人種」だけが存在するのだとも言いうるでしょう。つまり、誠実な人間と言う人種と不誠実な人間と言う人種とです。
意味への意思 V・E・フランクル 春秋社 p132・・・ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともでない人間と、・・・
夜と霧 V・E・フランクル 新版 p145・・・品位ある善意の人間とそうでない人間・・・
夜と霧 V・E・フランクル旧版 p196…論理的な観点から見れば、「人種」には、正しい人間という「人種」と不正な人間という「人種」の二つしかない。
人間とは何か 実存的精神療法 V・E・フランクル 春秋社 p159二つの「人種」が存在するだけである。つまりそれは端正な人間の人種と、端正でない人間よりなる人種である。
苦悩の存在論 V・E・フランクル 新泉社 p92
このように、様々な著作において、ふたつの種族について述べられています。
それぞれの著作で様々な表現で日本語訳がなされていますが、意味は皆同じ事ですね。
二つの種族
善意(天使)の人種
・「誠実な人間」、「まともな人間」、「品位ある善意の人間」、「正しい人間」、「端正な人間」
悪意(悪魔)の人種
・「誠実ではない人間」、「まともではない人間」、「品位のない悪意の人間」、「不正な人間」、端正でない人間」
そして、二種類の人間は世界中、何処にでも混在しており、
どのような人間でも、決断によって、次の瞬間にどちらにでもなることが出来るとしているのです。
要するに人間は「天使」にでも「悪魔」にでもなる可能性があるということを述べているのです。
フランクルは、
・・・この人間とはどのような存在なのでしょうか。人間とは、どんなときでも、決断する存在なのです。人間は、自分がどうあるか、自分が次の瞬間のどうあるべきかを絶えず決断するのです。人間には、天使になる可能性もあれば、悪魔になる可能性もあります。
意味への意思 V・E・フランクル 春秋社 p130
と言っています。
フランクルは、「誠実な人間」、「まともな人間」、「品位ある善意の人間」、「正しい人間」というものは永遠に少数者であり、つねに敗残の憂目を見る少数者であることを指摘しています。
しかし、この少数派である人間は決して恥じる必要はないのです。
フランクルは、彼の個人的人格的な闘争の決意と犠牲の精神が決定的に重要であるとしています。
この少数の人間の犠牲の精神が、「模範」と言う波紋を人々に与え、その波紋は大きな波となるのです。
ここに、個人的精神の次元上昇ということが、いかに重要であるかが今や、理解できるのです。
人間は「悪魔」にでも「天使」にでもなり得る存在である
重要なことは、今ここに存在している、「あなた」や「私」も、次の瞬間に「悪魔」になることもできるし、「天使」になることも出来るということです。
そして、どちらになるかは、その人間の「決断」に掛かっているということです。
ですから、いつでも、どこでも人間は責任のある、正しい決断をしなければならないのです。
正しい決断をするめには、「精神的次元の上昇」を図る必要があるのです。
私たち人間は、絶対的に善なるものを目指して「精神的次元の上昇」を目指さなければならないのです。
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現実逃避する人間
人間は現実を逃避する傾向があります。
比較的平和な現代において、人間は、主体性を失って、世界に埋没し、気晴らしを楽しみ、時間を潰しながら生きていますが。
これを「頽落」と呼び、このような生き方をしている人間を、実存哲学者であるマルティン・ハイデッカー(ハイデッカー自身は実存哲学者と呼ばれることを拒否しています。)は、ダス・マンと呼びました。
この「頽落」も一つの現実逃避なのです。
また、他の現実逃避としては神経症という疾患の中へと逃避することもあるのです。
今ここで、を生きる
私たちの、現実の世界がいかなる状況(ヤスパースのいう限界状況)にあろうとも、今ここという、現実的な状況の中で存在している人間は、誰一人としてとって代わることはできないものです。
人間は現実的な存在であり、今ここで、を生きている存在です。
今ここで、生きている人間の魂(精神)は一つでありどこにも同じ精神は存在しないのであり、自分と同じ人生を生きることはできないのです。
我々人間はこの世界に生きていることが奇跡である、ということを常に念頭において生きていかなければならないのです。
世界中の人々が今ここにいること自体が奇跡なのだから、一人では生きられない人間一人一人が、忍耐と寛容の心で、他人を尊重していくことが重要です。
そして、お互いに愛をもって傾聴し合い、相互理解の中で、互いに精神的なアセンションを行い、関係的に結び合い、相互援助を行って生きていかなければならないのです。
この理解的援助関係を世界で構築し、人生の意味を互いに発見し合い、生き甲斐を見つけ出すことが、理想の世界となるのです。
人間は神経症などの、現実逃避に溺れている暇などないはずです。
今や、精神的なアセンションを行うことが目下の急務なのです。