ココがポイント
人間の「意味への意志」は人間の良心と深く関わっています。
「良心」を鍛えて自分自身以外のものを志向する
投稿記事「自己超越としての意味への意志」、「意味への意志」の中で自己超越は人間の本質であると言うことを考察してきました。
フランクルも指摘しているように人間は自分自身以外のものを志向する存在なのです。
関連記事・・・自己超越としての「意味への意志」、意味への意志、還元主義によるニヒリズム
今世の中は科学的な還元主義主義でニヒリズムが蔓延してしまっています。
還元主義によるニヒリズムが人間を退屈と無感動を増大させてしまっているのです。
退屈と無感動はさらに、人間の精神の倦怠を生んでしまい、自分自身以外の外部世界への志向を停止させてしまうのです。
退屈と無感動で人間は、今のままでは堕落への一歩手前となってしまいます。
この状態を回避するためには、人間の精神的次元を成長させて人間本来の意味を発見する「良心」を成長させ、自己超越性を持った意味への意志によって、ロゴス(意味)の世界から自分自身の究極的な、個人的、独自的な意味を発見できるようにしなければならないのです。
良心の覚醒
人間は自分の「良心」を覚醒させなければなりません。
フランクルは良心について次のように述べています。
われわれは無意味感の蔓延する時代に生きています。こんなわれわれの時代には、教育は、単に知識を伝えることだけではなく、良心を洗練することをも心掛けなければなりません。その結果、人間は、状況のひとつひとつに内在している命令を聞き取ることができるほどに耳ざとくなるのです。十戒がかくも多くの人々にとってその妥当性を失っているように見えるこの時代には、人間は、人生が直面させる一万の状況のうちに暗号化されている一万の命令を聞き取ることができるようにならなければなりません。そのときには、まさにこの彼の人生は新たに意味に満ちたもの思われるようになり、またそればかりか、画一主義や全体主義・・・あの実存的空虚の二つの併発症状・・・に対する免疫性も彼自身に与えられることでしょう。というのは、良心の覚醒によってのみ、人間は画一主義に同調したり全体主義に屈服したりしなくなるのですから。
意味への意志 春秋社 p28
として、良心を覚醒させることが必要だと言っています。
伝統が薄れてしまっている現代では、自分の良心に語りかけ、良心の声を聴き、今ここでの自分は一体何が重要な事柄なのかを把握しなければならないのです。
「意味発見の感覚器官である良心」が発見した人間の「個人的独自的意味」、これが状況に対する本当の「意味」なのです。
しかし、この人間の「良心の覚醒」には少しばかりの「勇気」が必要です。
「意味」は少しばかりの「勇気」を持てば発見できる
「勇気」は投稿記事「エネルギーレベル200を目指せ」において説明したように、人間の精神的なエネルギーレベル200程度で出せることができるのです。
また、「勇気」を出して行動を起こすにはモチベーション(やる気、意欲、動機)が必要です。
人間が人生の意味をさがす場合は、モチベーションを上げる必要があります。
人生の意味という目的を達成するために、達成動機を活用しましょう。
達成動機は「コイントスに見る人間のモチベーション」というブログ投稿記事で「その目的が達成できるかどうかの50パーセントの確率の時、つまり、一か八かの時、が最も勇気が湧く瞬間だ」と説明しました。
関連記事・・・エネルギーレベル200を目指せ!、コイントスに見る人間のモチベーション
もし、自分がいま発見した、その意味が、自分の本当の100パーセントの人生の意味かどうかということはだれにもわかりません。
しかし、これが本当の人生の意味かどうかが疑われるかもしれないけれど、自分の良心に問いかけて、それが本当の人生の意味である確率が目的の約半分くらい(だいたい50%くらい)かもしれない、と思えるなら勇気をもって、自分の「良心」を信じて一か八か行動や思考に移してやってみることをお勧めします。
人間は勇気を持ってロゴスの世界つまり意味の世界に足を踏み入れ、人生の意味を発見することに全力を傾ける必要があるのです。
人生の意味はただ待っているだけでは発見できません。
人間はついつい自分の人生から何が得られるのかを自問自答してしまいがちです。
しかし、フランクルはこれをコペルニクス的転回をして、
「人生から何が得られるのかではなく、自分は自分の人生に対して、自分は一体何ができるのかを考える必要がある」と言っています。。
人生に問うのではなく問われたものとして考えなければならないのです。
自分は自分の人生において、一体何ができるかを考え、絶えず努力することによって、自分の人生の意味が発見され、人生の意味が充足され、ここで初めて「自己実現」がなされるのです。
「人生から何が得られるのか」と言う事は人生に対して受動的です。
それに対して、「自分は自分の人生に対して、自分は一体何ができるのか」と言う事は人生に対して能動的、積極的です。
問われたものとしての人間は、人生に対しての意味を自らの力で積極的に責任をもって発見しなければならないのです。
自分の人生の意味という目的が50パーセントの達成可能確率であるならば、全身全霊をもって自分の意味の感覚器官である良心を信じて行動や思考に移していきましょう。
関連記事・・・それでも人生にイエスと言う
誰に対しての責任から人生の意味を発見しなければならないのか?
「良心」とは、意味を発見するための感覚器官であると「意味への意志」というブログ投稿記事において考察しました。
関連記事・・・意味への意志
人間は意味を発見するための感覚器官である「良心」で、ロゴスの中から、自分の生きる意味を発見するのです。
「意味」とは「ロゴス」のことですが、ロゴスとは「こうであるべきである」ことが満ちている世界であり「神の世界」なのです。
人間は「こうであるという現実」と「こうでなければなという理想」の狭間で生きています。
そして、できるだけ「こうであるべきであるという理想の世界(ロゴスの世界)」から「こうであるという現実の世界」に引き入れることで「意味」が明らかにされるのです。
関連記事・・・存在と当為の間の溝
良心は、上記のように神が人間が今何をなすべきかという当為の世界(ロゴスの世界)に存在する神の声を聴くための感覚器官であるともいえるのです。
人間の状況に対する意味の発見は、神の声を聴くことのできる感覚器官である良心によって発見し、感じ取ったものである以上、その感じ取った意味は神に対する責任において発見したということになります。
人生の意味を発見する責任
当為の世界は「こうあるべきである世界」ですが、「こうであるべきである」と言う事は「すべきである」という、ある意味「するべき責任がある」と言う事が含まれています
それは神に対しての責任があるという事です。
フランクルは「無条件の意味への無条件の信仰」を提唱しています。
「無条件の意味への無条件の信仰」は神への基本的信頼が必要です。
関連記事・・・無条件の意味への、無条件の信仰
宗教的な人はこの基本的信頼と言う事がよくわかっています。
無神論者にこの基本的信頼を覚醒させるにはどうすればいいのでしょうか?
フランクルの次のように述べています。
では人間世界と神の世界の間の次元的相違に面して、人間がこの相違を認識することは、いかにしたら可能となるのであろうか。この可能性を理解するためには、我々は人間と動物との関係を考えさえすればよい。人間世界は動物の世界を含んでいる。ある点で人間は動物を理解できるが、動物は人間を理解できない。さて、人間と動物の比は神と人間の比といくらか似ている、というのが私の主張である。
意味への意志 ブレーン出版 p180
それでは人間世界と神世界の次元的相違に直面して、人間がこの相違を認識することはいかにしたら可能になるのでしょうか。この相違点を理解するために、私たちは、人間と動物の関係を考えるだけでよいでしょう。人間世界は動物世界を含んでいます。ある点で人間は動物を理解できますが、動物は人間を理解できません。さて、人間と動物の相関性は、神と人間の間の相関性といくらか類似性を持つというのが私の主張です。
絶望から希望を導導くために 青土社 p221 (意味への意志 ブレーン出版の増補版)
無神論者への理解は、「人間と動物」、「神と人間」と言うそれぞれの関係性を考えさせれば納得がいく可能性があるのではないでしょうか?
人間と動物
動物からは人間の行動が理解できません。
・人間が遠くにボールを投げて犬に取りに行かせようとするとき、言葉やジェスチャーをしてもなかなか理解されない
人間が動物に対して、何度も同じことを繰り返し教えることによってやっとボールを取りに行けるようになります。
・動物が病気やケガで病院に連れていくとき、動物はなぜ病院で手術や注射を打たれているか理解できずに暴れているだけ
動物が信頼している飼い主である人間が優しくなだめているので、おとなしくなり動物病院での治療を受けるようになります。
神と人間
人間には神の意向理解できません。
・そこに神が与えた意味が最初からあるのに、人生には意味はないと言って、ただ嘆いているしかない人間
神を信じて、無条件の意味への無条件の信仰で、神に対する責任において、絶えず意味発見に努力して、自分は神が与えた人生に対して何ができるかを考え、その過程で人生の意味を発見することができます。
このように対比して考えてみればわかりやすいのではないでしょうか?
人間は飼われている動物と同じように、ただ運命に対してただ噛みついているだけに過ぎないのです。
「意味」は「無条件の意味への無条件の信仰」から、最も得られる
「フランクルの人生肯定的世界観」と言うブログ投稿記事の中の引用文面をもう一度見ていただきたいと思います。
・・・無条件の意味への無条件の信仰は、完全な敗北を英雄的勝利へと変えるかもしれないのある。これが可能だということは、我々の時代の多くの患者によって示されただけではなく、聖書の時代のパレスチナのどこかに住んでいた、一人の農夫によって示されていた。かれの場合は文字通りの穀物倉であった。その穀物倉は文字通りの空っぽであった。しかもなお、究極的意味に対する無条件の信頼と、究極的存在に対する無条件の信仰から、ハバックは勝利の讃美歌を歌ったのである。
「いちじくの花は咲かなくとも、ブドウに木の実がみのらなくとも、そしてオリーブの仕事は失敗し、田畑は一粒の食べ物をももたらさず、羊は囲いから逃げてしまい、馬小屋に馬一匹たりともいなくとも、でも私は神を祝福し、神が私の救済をなされたことを喜びたい。」
意味への意思 ブレーン出版 p194
・・・無条件の意味への無条件の信仰は、完全な敗北を英雄的勝利へと変えるかもしれません。これが可能なのは、私たちの時代の多くの患者によって証明されただけではなく、聖書の時代のパレスチナのどこかに住んでいた一人の農夫によって示されていました。かれの場合は文字通りの穀物倉で、空っぽでした。しかもなお、究極的意味に対する無条件の信頼と、究極的存在に対する無条件の信仰から、ババックは勝利の讃美歌を詠唱したのです。
「いちじくの花は咲かなくとも、ブドウの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛が今くなる。しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る」(ハバック書三章十七節~十八節)
絶望から希望を導導くために 青土社 p239 (意味への意志 ブレーン出版の増補版)
フランクルの述べている「無条件の意味への無条件の信仰」は上記の引用文のババックの言った勝利の讃美歌の内容そのものです。
このような心境になることによってはじめて得られる信仰なのです。
関連記事・・・無条件の意味への、無条件の信仰、フランクルの人生肯定的世界観
究極的意味への無条件の信仰は究極的存在への信頼とは、すなわち神への信頼、神への信仰の問題になります。
人間は自己超越の能力があり自己超越は実存の本質ですが、このことが人間であることの基本です。
しかし、何の模範なしには本当の自己超越は可能とはなりません。
人間には先導者が必要です。
人間は神を模範として人間の本当のあるべき姿を目指さなければならないのです。
新約聖書の中には
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」
新約聖書
マルコによる福音書 30節
と言う言葉が記されています。
このことは大変意味深長であり人間は神を「心の全体、魂の全体、能力の全体で愛する」べきであることを指摘しています。
人間は無条件の意味への無条件の信仰によって自分の神を信じて行動しなければならないのです。
そして、人間は自分の人生から何が得られるのかではなく自分の人生に対して一体何ができるのかを考える必要がある。
人生に問うのではなく問われたものとして考えなければなりません。
問われたものとしての責任ある自由が人間の自由なのです。
人間は自己超越の能力があり自己超越は実存の本質であるが、神に対する責任においてこの能力を使い、ロゴスの世界から、一つでも多くの当為をこの世界に実現させなければならないのです。
このことが人間であることの基本であり、使命であり、精神的次元上昇への道でもあるのです.
意味への意志が目指すもの
人間の「意味への意志」が目指すものは、「無条件の意味への無条件の意味への信仰」によって、ロゴスの世界の中から見つけ出されるべき「意味」であると言えるのです。