この記事のココがポイント
ニヒリズムは人間の人間性の剥奪です。人間の自由と責任性を取り戻しヒューマニズムを取り戻しましょう。
還元主義とは
還元主義とは、複雑な全体を分解して、ある要素に還元して理解しようとする科学的手法です。
還元主義はニヒリズム(虚無主義)を生み出します。
ニヒリズムは人間存在には意味がないと言うのです。
ニヒリズムは人間とは結局ロボットであると言い切るのです。
そこには、人間の人間性である、人格や魂や精神と言う概念が骨抜きにされてしまうのです。
ニヒリズムには人間の精神的な努力とか、精神的な自由で責任ある行動や、人間であることの意味とか価値などは剥奪され、何もないことにされてしまうのです。
そこには一体何があるのでしょう。
そこにあるのは、ニヒリズムを口にする人間の精神の倦怠と怠惰が大いに含まれているのです。
精神的に病んでいると言ってもいいのです。
フランクルは、アウシュヴィッツ強制収容所はニヒリズムを口にする科学者や哲学者によって作り出されたものであると次のように、冷ややかに述べています。
アウシュヴィッツも、トレブリンカも、そしてマイダネックも根本的にはベルリンの閣僚たちによって準備されたものではなく、まえもってニヒリスティックな科学者や哲学者たちの机の上や講堂の中で準備されていたのです。
精神医学的人間像 フランクル著作集 第六巻 みすず書房 p45
このように記述して、ニヒリズムを批判しています。
ニヒリズムには、ある独特の言い回しがあります。
それは、「結局事物は・・・に過ぎない」という言葉で終わるのです。
還元主義の台頭
還元主義は19世紀において台頭しました。
結局物質は分析によって単純な元素に還元することができるとしました。
脳科学における還元主義
脳科学においては大脳局在論として現れました。
脳科学においては、人間は「脳細胞の信号によって動くロボットに過ぎない」のです。
精神分析における還元主義
精神医学の分野では、ジークムント・フロイドよる精神分析において現れました。
人間の精神は、結局化学におけるように分析して、いくつかのコンプレックスといった、要素または本質に分解できるとしたのです。
フロイドによれば、人間は「無意識のリビドーによって駆り立てられる存在である」としました。
精神分析によれば「人間は無意識のリビドーによって駆り立てられるロボットに過ぎない」のです。
量子力学におけるにおける還元主義
量子論によると、物質を最小単位に分解すると一つの粒子になります。
量子力学では現在、二重スリット実験によって、物質の最小単位である粒子は粒子と波動の二重性と言う性質があることが証明されました。
現代の量子力学においては、すべての物質は、最小単位に分解していけば素粒子であり、その素粒子の性質は、粒子と波動の二重性と言う性質があるのです。
粒子と波動の二重性は不確定性原理と確率解釈を生み出しました。
現代の量子物理学の理論において、物質の最小単位である粒子は、粒子と波動の二重性の性質を持ち、確率解釈と不確定性原理に基づいて物質のミクロの世界は成り立っているとい言う理論で成り立っています。
要するに、雲みたいにモヤモヤしたものを観察すると物質となる、というオカルト的な解釈が成り立つのです。
ここにスピリチュアル系の人々が注目する革新的な部分なのです。
そして、この部分を利用して様々なスピリチュアルビジネスが登場しているのです。
この物質のもとである、素粒子の粒子と波動の二重性の性質から、フォログラフィック理論が現れました。
これが現代の還元主義です。
この還元主義は人間が見ている世界は脳の錯覚であるとするのです。
見たものを脳が電気信号に変換しての脳と言うコンピューターが勝手に映像を作り出しているに「過ぎない」とするのです。
本当は現実の世界には何もないのであり、「ただの虚像に過ぎない」のだというのです。
世界はエネルギーの波の中にあり、世界の中には何もなく、目の前の波を見て個体だと「人間が認識しているだけに過ぎない」のであるとするのです。
ここにまたニヒリズムの根幹を見るのです。
量子力学における粒子と波動の二重性と言う、物質の曖昧さが様々な考え方を生んでいます。
この粒子と波動の二重性ということは、未だにはっきりとは解決できていないのです。
このように、現代科学の還元主義的考え方である、フォログラフィック理論が、フォログラフィック説を生み出しました。
フォログラフィック説を要約すれば、現実の現在、私が今見ている空間は、脳という機械が勝手に外界の波動を翻訳し、作り上げホログラムによって投影されて見ているだけで、幻想に「過ぎない」というのです。
つまり、還元主義の言うところの、「過ぎない」の言い回しになってしまっています。
そして、今自分がいる現実というのは、自分の脳が勝手に、自分の五感と脳という機械(コンピューター)が体という波動を翻訳して、体があるかのように変換して、見せかけているだけだというのです。
個体である自分の体というのは初めから全く存在していなくて、脳が勝手に作り出しているホログラム映像であり、幻想であるとするのです。
このホログラム説は、現実は幻想であるとするので、精神的に弱い、現実逃避を企てている人間にとっては迷いが生じます。
そして、その迷いは、「こっちの水は甘いぞ」と言い寄ってくる、宗教やスピリチュアル系アセンションビジネス、薬物乱用といった非現実的な世界に導こうとする人たちの温床、となってしまうのです。
人間の精神の成長にとって、このホログラム説は危ない考え方であると思うのです。
人間は現実存在であり、「今ここで」、を一生懸命に生きる、実存的な存在であるということを改めて考える必要があるのです。
本質主義が陥る罠
本質主義は、どのような本質主義でも、結局のところは、物事を一面的にしか見ることしかできません。
「木を見て森を見ない」のです。
この還元主義(本質主義)に対して、実存主義が台頭することになります。
実存思想は本質主義に対立します。
本質主義とは、
「事物があるところのものである。」
例えば「これは紙である。」という時、
それは「ただの紙であるに過ぎない」
というのが本質主義です。
本質主義においては人間はロボットであることになってしまします。
精神的実存の自律性が無視され人間には意味がないということになってしまうのです。
本質主義から実存主義へ
実存主義とは「今ここにある一枚の紙を重要視する」のが、実存主義なのです。
つまり、紙を人間に置き換えると、今現実の現在に存在しているロボットではない、感情を持った、精神的人格を有する、一人の人間を重要視する考え方が実存思想なのです。
人間は、現実の現在に、今ここで生きており、精神的自由のもとに存在しています。
そして、今ここでを精一杯生きることが重要なのです。
物において「本質」が先立つということは、厳密な「決定論」ということになり、もうこれ以上どうにもならない、ということに帰着することになります。
つまり「運命論」ということになってしまいます。
本質主義は結局、運命論に到達するのです。
しかし人間は違います。
人間は自由であるし、自分の存在の可能性の中から選び取ることが出来て、たとえどのように社会的、肉体的にいかに制約されていようとも、私の取る「態度」が「私」を変えることができる(サルトル)のです。
たとえ、この私の肉体や心が、どのように制約されていても、決定論や運命論に囚われず、自分自身を変えることが出来るのものが、精神なのです。
人間のこの精神的次元において、自分を客観視し、そして、自分の精神的態度の変容を遂げることが出来るの存在なのです。
この人間の精神的な態度変容の自由と言うことが、最も人間的なものなのです。
しかし、人間は確かに自由であるが、この自由は「勝手気ままな自由」ではありません。
「責任性を伴った自由」でなければならないのです。
何に対する自由かと言いますと、神に対する責任ある自由であるということが出来ます。
還元主義から実存主義に移行する場合に問題になるのは、神の存在です。
ここで言う実存主義とは有神論的実存主義のことを言います。
フランクルは無神論的実存主義者であるJ・P・サルトルについて次のように言っています。
実存分析は現代哲学のこの開拓者に対して負うているとことが少なくないのに対し、他方ではJ・P・サルトルの実存主義とはほとんど関係がないのである。
神経症Ⅱ フランクル著作集第五巻 p96
と述べて、無神論的実存主義と決別しています。
人間は自由ですが、神に対して責任があるのです。
人間と言うものを要約すれば、自由であり、神に対する責任を持つ精神的な人格を持つ存在なのです。
人間のこの自由と責任性によってヒューマニズムを回復しましょう。
フランクルはこの、「人間の自由と責任性」に訴えかけて、不治の病に悩む患者の態度を変えさせて、治癒に導こうとするのです。
これがロゴセラピーであり、フランクルはこれを、人格的態度療法と呼んでいます。
関連記事・・・量子力学とスピリチュアルと愛、フランクルのロゴセラピー