この記事のポイント
「随所に主と作る」ことと、フランクルの人生哲学は同じです。
随所に主と作れば立処皆真なり
随所に主と作れば立処皆真なり(ずいしょにしゅとなればりっしょみなしんなり)という言葉があります。
この言葉は臨済録(りんざいろく)という中国・唐時代の書物に出てくる言葉で、禅語です。
この言葉の意味は、いつでも、どこでも、主となる自分自身が主人公であり、自分らしさを失わないように、アイデンティティを保て、そうすれば、いつでも、どこでも、真理に到達できる。と言う意味です。
アイデンティティー
自己の内面において時間と空間を統合させ、他人との関係の中で独自性、自立性を保っている状態
発達心理学者エリクソン
ここまでの説明でも、まだぴんと来ないかもしれません。
もう少し「随所に主と作れば立処皆真なり」と言う言葉を掘り下げていってみましょう。
もう少し分かりやすくこの言葉を要約すると
「私が何処にいようとも、決して周りに振り回されることなく、自分を信じて、行動すれば、たとえどんな環境であろうとも、人生の生きる道が切り開かれ、その時の真実の意味が分かるようになる。」
と言った内容になります。
もっと簡単に言えば
「主体性をもって生きよ」ということですね。
このことを具体的に行った人間の行動例を挙げてみましょう。
例えば、
左の頬っぺたを叩かれたとすると、すかさず自分から右の頬っぺたを出して、「こっちも叩いてみよ」。
といった場合です。
この行為は決してマゾヒズムで行ったのではありません。
主体性を持って生きるという、生き方に対する「精神的態度」の問題なのです。
主体性を持って生きるということは、どんな状況においても自分の意志や判断で責任をもって行動するという態度であり、状況に応じて自分が何をすべきかを考えて判断し行動するということです。
自分自身の確固とした理想や価値を持って、自分自身はどんな時もブレないアイデンティティを保ち、忍耐と寛容の気持ちで相手に接するという精神的に成熟した崇高な態度なのです。
「随所に主と作る」とフランクルの人生哲学
この 「随所に主となる」という禅語は、フランクルのロゴセラピーの真髄を表しているとも言えます。
フランクルは既存の実存主義を、実存主義が疎かにしている、客観的に精神的な「ロゴス」と、主観的に精神的努力である「愛」を取り入れて実存主義を修正しています。(意味への意思 春秋社p126)
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客観的に精神的な「ロゴス」とは神が人間に与えた「意味の世界」のことであり、人間の主観的な努力である人間の「愛」によって初めて人間に意味を与えるのです。
フランクルの実存哲学は「愛」を持って「今ここで」を精一杯生きることを推奨しているのです。
それは要するに 随所に主となって(主体性を持って)生きることを意味しているのです。
「随所に主となる」ということは、フランクルの人間の人生観にも現れています。
フランクルは人生の意味への問いは、人生から人生の意味の答えを求めるのではなく、人生の方から人生の意味を問われているものであるとしています。
フランクルは
人間が問うのではなく、むしろ人間は人生から問われているものであり、人生に答えねばならず、人生に責任を持たねばならないものなのである。そして、人間が与える答えは、「具体的な人生の問い」に対する具体的な答でしかありえない。
実存的精神療法 人間とは何か V・E・フランクル春秋社 p131
このことを人生の意味への問いの、コペルニクス的転回(転換とも言います)であると言っています。
フランクルは、人間は人生に意味を求めて行くのではなくて、人生そのものが人間に対して何ができるのかを求めているのであると言っており、人間に人生から問われた者として、「随所に主となる」(主体性を持つ)ことを強調しているのです。
フランクルは、人間は人生に対して何ができるのかという問いの答えは、
その答えが具体的なものでありうるのは、ただ、われわれがその都度の自分の人生、その都度の自分の現存在に責任を持つこと、今・ここにいる自分の現存在に責任を持つことによってのみであります。この現存在の責任性、すなわち、そのまったき具体性と、そのつどの人格ないしその都度の状況への具体的関連性とにおける現存在の責任性こそ、まさに問われている現存在の意味をなすものなのです。つまり、責任存在が人間存在の意味なのであります。
意味への意思 V・E・フランクル 春秋社 p64~65
として、人間存在が責任性存在として、自ら責任を持って、今・ここで「随所に主と作る」具体的な行動をして、精一杯生きることを重要視しているのです。
そうすることによって、人間は主観的に精神的努力である「愛」によって、独自的で一回的な今・ここでの客観的に精神的な「ロゴス(客観的意味の世界)」の中から、意味を見つけ出し、具体的な行動をすることができるように成るのです。
つまり、 「随所に主と作る」ことによって初めて、現存在の意味が明らかにされ、人生に対する意味への問いに対する回答ができる、ということなのです。
フランクルは、現存在に責任を持つこと、と言っています。
このことは人間が人生に対して、自由に決断し回答ができるけれども、その自由とは勝手気ままなものではなく、責任を伴ったものでなければならない、としているのです。
そして、この責任とは何に対しての責任なのかと問われれば、
それは究極的には「神」に対しての責任だということなのです。
つまり、実存的に生きることを推奨していますが、この「今ここで」を精一杯実存的に生きるということが、この「随所に主と作れば立処皆真なり」と言う生き方なのです。
責任ある自由の現実の中で、「今ここで」を精一杯、実存的に生きる、生き方こそが「随所に主と作れば立処皆真なり」なのです。
この態度を実現するには、現代人には大変難しい精神的態度なのです。
このことは精神性が高く、高度にアセンションしている人間にしか持つことが出来ない態度なのです。
現代人は自主性はあっても主体性は無い
現代人は精神ということに対しては、もう飽き飽きしています。
現代人につらい事はタブーなのです。
ネットの世界では、スピリチュアル業界で言っているように、楽に生きるとか、楽に願望が叶うとか、そういったキャッチフレーズのユーチューブやブログが多くみられるようになりました。
現代人には「死ぬ気でやってみろ」などというと、パワハラとなってしまうのです。
さて、主体性と同じ様な言葉に自主性と言うものがあります。
自主性とは自分の取るべき行動がはっきりと分かっている場合に、他人から指示を受ける前に率先して行動が自分の判断で出来る。ということです
一方主体性は
自分の意思で方向性を決めて行動し、しかもその行動に対して生じた結果に責任を持つことが要求されます。つまり行動に対する責任が伴うのです。
現代人は自由自由と言って勝手気ままに生きており、行動は自主的であるが、責任が伴っていないので主体的ではないと言えます。
現代人はスポーツマンのように精神を鍛えなければならないのです。
自主性から主体性への成長
子供に適当に選んだおもちゃで遊ばせてみると、全然遊ばないが、自分が気に入ったおもちゃで遊ばせると一日中でも遊んでいる場合は自主性が出てきたということになります。
しかし、自発的に行動ができるようには成りましたが、勝手気ままに自由に遊んでいるだけで責任感はないのです。
この場合は、自主性が育ったということになります。
しかし、人間はさらに精神的に成長していくと、
独自的で一回的な今・ここでの客観的に精神的な「ロゴス(客観的意味の世界)」の中から、意味を見つけ出し、主観的に精神的努力である「愛」によって具体的な行動をすることができるように成るのです。
そして、その人間が責任性存在として、自ら責任を持って、今・ここで「随所に主となる」具体的な行動をしてこそ、精神的次元が上昇し、主体性を持った行動と成ることが出来るのです。
人間は、生きるための意味や理想や価値を求めて日々探求しなければならないのです。
それが人間の使命であるというところまで、精神性を持っていかなければなりません。
これが精神的次元上昇の理想なのです。
仕事の上での主体性
仕事においても、上司から、与えられた仕事というものはあまりやる気にならないのであり、自ら進んで選んだ仕事ならば夢中で没頭することができるのです。
つまり主体的に仕事ができるのです。
どのような仕事でも自分に合うか、合わないか、はやってみなければわかりません。
どんな仕事であっても、何か自分に向いた仕事が必ずあるはずです。
それを見つけ出して、主体性をもって仕事ができれば、人生においても前向きに生きることができるはずです。
いやな仕事に出くわしたら、まずは、いやな仕事だと思わず、その中で主体性をもって出来ると思う、自分に向いていそうな仕事を、その仕事の中でまず見つけるように努力してみることが、自分の精神的成長にも繋がると思うのです。
フランクルは人間の人生の意味は自由と責任において発見する責任があると言っており、どのような仕事でも自分の人生においては、必ず意味のある仕事であるはずなのです。
人は自分の努力において、その仕事に意味を見出して、自分の仕事とするのです。
究極的な人間の仕事とは
究極的な人間の仕事とは、強い使命感(神に対する)を持って没頭できる仕事が本当の仕事と言えるのです。