ココがポイント
フランクルの著作は人生肯定的世界観を提唱しています。
人生肯定的世界観
フランクルは一貫して人生肯定的世界観を唱えています。
フランクルは心身症の患者に対して、どんな人生にも意味があり、一人ひとりがそれぞれ、大切な人間なのだという、自己肯定的、人生肯定的世界観を訴えかけ続けてきました。
人は基本的に「幸せであるという価値観」で生きなければ幸せではないのです。
この 「幸せであるという価値観」 を育てるものが、「人生肯定的世界観」なのです。
フランクルの著作に「それでも人生に対してイエスという」ものがありますが、この言葉こそ究極の人生肯定的世界観なのです。
「それでも人生に対してイエスという」 という言葉は、ブーヘンヴァルト収容所の囚人たちが、作った歌の中で歌われたものなのです。
この歌は、ただ歌っただけではなく実際の行動においても 、それでも人生に対してイエスと言って、収容所生活を生き抜いてきたのでした 。しかも、多くの収容者が行動に移すことができたのです。
今現在、強制収容所というものはありませんが、この比較的平和で、まだましな現代において、 「それでも人生に対してイエスという」 ことは無理な言葉ではないと思わないでしょうか?
この「それでも人生に対してイエスという」 言葉の中には、様々な意味が凝縮されていますが、結局は人間の人生とは、どのような人生であろうと意味があるという信念において成り立っている言葉なのです。
そしてこの言葉の中に「無条件の意味への無条件の信仰」が含まれているのです。
フランクルが現代の人間に対して訴えかけ、そして提唱しているものは、「無条件の意味への無条件の信仰」なのです。
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「無条件の意味への無条件の信仰」は絶望を勝利へと変換する究極の信仰である
私はフランクルが教訓として我々に残した言葉では一番わかりやすいものが下記の引用であると思います。
・・・無条件の意味への無条件の信仰は、完全な敗北を英雄的勝利へと変えるかもしれないのある。これが可能だということは、我々の時代の多くの患者によって示されただけではなく、聖書の時代のパレスチナのどこかに住んでいた、一人の農夫によって示されていた。かれの場合は文字通りの穀物倉であった。その穀物倉は文字通りの空っぽであった。しかもなお、究極的意味に対する無条件の信頼と、究極的存在に対する無条件の信仰から、ババックは勝利の讃美歌を歌ったのである。
「いちじくの花は咲かなくとも、ブドウに木の実がみのらなくとも、そしてオリーブの仕事は失敗し、田畑は一粒の食べ物をももたらさず、羊は囲いから逃げてしまい、馬小屋に馬一匹たりともいなくとも、でも私は神を祝福し、神が私の救済をなされたことを喜びたい。」
意味への意思 V・E・フランクル ブレーン出版 194p
・・・無条件の意味への無条件の信仰は、完全な敗北を英雄的勝利へと変えるかもしれません。これが可能なのは、私たちの時代の多くの患者によって証明されているだけではなく、聖書の時代のパレスチナのどこかに住んでいた一人の農夫によって明示されています。彼の場合は文字通りの穀物倉で、空っぽでした。しかもなお、究極的意味に対する無条件の信頼と、究極的存在に対する無条件の信仰から、ババックは勝利の讃美歌を詠唱したのです。
「いちじくの木に花は咲かず、ブドウに枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜びわが救いの神のゆえに踊る」(ハバック書三章十七節~十八節)。
絶望から希望を導くために V・E・フランクル 春土社 p239 (意味への意思 V・E・フランクル ブレーン出版増補版)
この文節の中にフランクルの言いたいことすべてが込められているのです。
ここに書かれていることが自分の精神の中で思うことができれば、 絶望を勝利へとコペルニクス的転回をさせることが誰にでもできるのです。
ここに書かれている言葉を毎日唱和するだけでも、きっとあなたはきっと幸せになれると思うのです。
これがフランクルの言う「 それでも人生に対してイエスという 」という言葉の意味なのです。
無条件の意味への無条件の信仰 は絶望を勝利へとコペルニクス的転回を促すものです。
様々なセラピストやカウンセラー、ヒーラーの方々が、精神的次元上昇を試みています。また、平和な現代においても、そこに藁をもつかむ思いで訪ねてくるクライアントがいますが、別に 人間は特別にセラピストやカウンセラー、ヒーラー に頼ることなく精神的次元上昇の極みに達することができるのです。
「無条件の意味への無条件の信仰」 は人類が最高の状態で生きることができる信仰であるといってもよいのです。
これは正に精神的次元上昇への道なのです。
「無条件の意味への無条件の信仰」 これこそが究極の信仰なのです。
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「無条件の意味への無条件の信仰」 を持つことは簡単ではないのか?
さて、 「無条件の意味への無条件の信仰」 をあなたはどのように解釈しますか?
「ばかげている」と思ったあなたは、まだ精神的次元上昇への道に入っていないかもしれません。
この 無条件の意味への無条件の信仰 が出来たとき、はじめて精神的次元が開かれ、天から光がさすのです。
このことは、単なる宗教ではありません。
これは、主体的個別的な真実と現実を重要視する実存的な宗教であり、だれにも束縛されない、個人的宗教なのです。
・・・宗教、とか・・団体とかいう組織的な宗教ではなく、あなただけの個人的宗教主義なのです。
無条件の意味への無条件の信仰があれば、人間は神以外には何も恐れる必要はないのです。
仏教では「無の境地」というものがあります。
これは悟りを開くという意味です。
無の境地とは、 人間の本能から解き放たれ精神の迷いがなくなった状態 を表しています。
この状態というのは、目の前に困難が立ちはだかっても、パニックに陥ることなく、平常心を保つことができる状態なのです、これを「無の境地」と言います。
「無条件の意味への無条件の信仰」 は正に「無の境地」なのです。