ココがポイント
人間の寿命は100年余り、それに比べてエルフは1000年以上生きるといわれます。
寿命は長ければいいのでしょうか?
エルフは1000年生きる?
エルフは伝説やアニメの世界では1000年以上も生きることで知られています。
人間は100年余りしか生きることはできません。
なぜ人間は100年余りしか生きられないのでしょうか?
このブログにおいては古代宇宙飛行士説を基にしています。
古代の宇宙飛行士たちは、人間に「テロメア」をDNA の中に入れて100年くらいしか生きることを許さなかったのです。
なぜ古代の宇宙飛行士たちは人間を100年余りしか生きることを許さなかったのでしょうか?
人間は基本的に精神性が低いので、あまり長く生かすことを躊躇ったのです。
もし、精神性の低い人間が1000年もの間、生き続けることが出来るとしたらどうなるでしょう。
精神性が低い人間はただだらだらと生きるか、または勢力争いによって紛争や戦争などで何度も滅んでためにでしょう。
古代の宇宙人たちは人間の低い精神性の向上のために、現実の世界で修行させて精神性を高めてもらうために、この地球で精神修行をさせようと、人間を100年余りしか寿命を与えなかったのだと思います。
ただ長生きすれば幸せなのか
人間に与えられた100年余りの寿命をどのように生きたらよいのでしょうか?
「幸せ」という言葉があります。
この100年余りの短い寿命を「幸せに生きる」ということは、誰もが望んでいることだと思います。
幸せとは何でしょうか?
幸せホルモンというものがあります。
関連記事・・・幸せとは何か
・セロトニン(精神安定)
・オキシトシン(愛情)
・エンドルフィン(高揚感、鎮痛)
・ドーパミン(やる気)
幸せであるという心理状態は、これら4つのホルモンが人間の脳内で分泌されることによって、幸せであるという感覚が生まれるのです。
オキシトシンは人工的に作ることが出来るようですが、残りの幸せホルモンをは工的に作ることは現在ではなかなか難しいことのようですが、いずれ科学技術によって生産されることと思われます。
もし、すべての幸せホルモンが作れて、人間がそれを湯水のように使うことが出来たとしましょう。
その幸せホルモンで人工的に幸せの状態になることを、人々は望むでしょうか?
そして、もしエルフのように1000年も生き続け、ホルモンまみれの状態(疑似的幸せ)にしたとして、一体これで生きている意味があるのでしょうか?
これは現実逃避以外の何物でもありません。
人間の現実逃避
一部の精神性の低い人たちは、「ドラッグ」というものを使って現実逃避する人たちがいることは事実です。
また神経症という疾患への逃避であることもあります。
神経症も身体的な疾患のために神経症であるでこともありますが、一種の現実逃避です。
神経症になりやすい人は心配性、完璧主義、神経質、自分に厳しいといった人がなりやすいとされています。
神経症の人は自分のことに厳格すぎるめ現実逃避をしやすいのです。
結局、ドラッグの溺れる人や神経症の人というのは、自分自身の内部の世界にだけ重点を置いているということが問題なのです。
人間は自分自身のためだけに生きているのでしょうか?
ドラッグ常習者は自分自身か気持ちよくなるためにドラッグに頼り、神経症は自分自身が心配であるから悩んでいるのです。
ドラッグ常習者も神経症の人も結局、自分自身のことばかりを考えているのです。
人間は自分自身以外のもののためにある
人間は感覚器官というものがあります。
いわゆる五感、目(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、皮膚(触覚)ですが、五感はまず一つには、人間が外界を認識し自分自身を守るために必要であるからなのです。
もう一つの役割は、人間はアリストテレスの言うように、社会的動物であり、ハイデガーの言う世界内存在であり、他者と共に関係的に存在しているという関係存在でもあるのです。
この関係存在ということが重要になってくるのです。
人間は「人」の「間」と書きます。
人間は人(ひと)の間(あいだ)にあって生かされているのです。
フランクルは、人間は自分自身以外の外部にあるある誰かや何かのために自分を差し向けることによって本来の自分自身となる、と次のように言っています。
人間存在は自己自身を超えて、自己自身ではない何か―――何かあるものや誰かある人、すなわち満たされるべき意味や自己が出会う人間存在―――に自己を指し向けるという根本的事実です。「人間は、本来あるところのものに成らなければならない」というピンダロスの命令は依然として有効です。しかし厳密に言えば、この命令は、カール・ヤスパースの次の言葉を補足することによって初めて有効なものになります。すなわち、「人間が本来あるところのものになるのは、彼が自分のものにする事柄を通してである。」自己実現の代表的主張者であるアブラハム・マスローも同様の見解を表明しています。「自己実現を直接的に追求する人々は、人生の使命がら切り離されて、実際に自己実現を達成することはないというフランクルの経験は私のそれと一致する。」
意味への意志 春秋社 p14
フランクルの言うように、人間は、「ある何か意味のある人間の外部にあるもののため」や、「何か意味のある誰かのため」にあるのです。
人間のは自分自身以外のものに意味志向性を示さなければ本当に生きているとは言えず、決して「自己実現」などできないのです。
ドイツの実存哲学者であるマルチン・ハイデガーは、人間には短い寿命があるのに、それに目を向けずに本来の生き方ではない生き方をしており、人々の価値観の喪失、アイデンティティの拡散(エリクソン)、精神的貧困、大衆社会への埋没による自己の喪失等へと頽落し「頽落世界化」と呼ばれる非日常を過ごしているとして、そうした人達を「ダス・マン」と呼びました。
精神性の低い人間は「ダス・マン」になりやすいのです。
人間はただ長く生きればいいのではありません
人間は生きた長さが問題ではなく、限りあるその人生をどのように生きたかということが問題なのです。
フランクルの言い回しで言えば、何か意味ある何かや、意味ある誰かのために自分の身を捧げることによって本当の人間となるのです。
独自性と一回性
人間はそれぞれ、独自的です。決して全く同じ人生を歩むことはないのです。
また、一人の人の人生は一回きりです。
この独自性と一回性、それと100年余りの短い寿命という事実を、もう一度自覚しなければなりません。
このことを自覚して決断し行為していかなければならないのです。
人生100年だから
人間は100年余りの寿命だから、1日1日を大切に生きることに意味があるのです。
しかし、人間は決断を誤り罪を犯します。
人間は自由であるため様々な間違いを犯します。
しかし、これを悔やんではいけません。
ここに人間の「決断」に対し「責任」というものが関わってくるのです。
人間は自由ではありますが、責任というものを自覚して決断し行動しなければなりません。
自由と責任は表裏一体なのです。
誤った人生は「今ここ」から悔い改めることが出来れば、過去の失敗は修正され自分の人生の糧となって帰ってくるのです。