この記事のココがポイント
人間は「存在」と「当為」の狭間に生きているのです。
宗教やアセンションの個人化
人間の宗教やアセンションは団体(組織)で行っているものが多いのです。
人間は何かに依存して生きていくほうが楽なので必然的に団体(組織)に依存することが多いのかもしれません。
人間のアセンション、いわゆる次元上昇は仏教で言えば「悟りを開く(覚醒する、目覚める)」ということですが、スピリチュアル系のアセッション業界では人類全体の次元上昇、宇宙規模の次元上昇ということを前面に出しているようです。
しかし、人類全体、宇宙全体というより、「一人一人の自分の中にある精神の次元の上昇」を考えなければ何もならないのではないかと思うのです。
人間一人一人の自立したアセンションにしなければならないのです。
人間は生まれる時も、死ぬ時も一人なのです。
人間は集団になると、代表者の言動が集団のすべての人の行動を左右してしまいます。
集団でのマインドコントロールの中に個人が埋没してしまうのです。
悟り(覚醒)を開く場合は、団体ではなく、個人的に悟り(覚醒)を開かなければならないのです。
このことは 「アセンションとは何か?」と言うブログの中で述べました。
最終的に神と向かい合うのは人間、個人個人、一人一人の精神的次元での神との対話なのです。
この意味でヒンズー教は賢いと思います。ヒンズー教は子供のころ、自分の神の名前を自分で決め、その名前は一生、家族にも、他人にも、口にしてはいけないと教えるそうです。
これは個人に特化した究極の宗教なのです。
人間は神には成れませんが、努力すれば神に近く成ることができます。
神に近い悟り(覚醒)を開くことが出きるのです。
フランクルは、
人間は在るためにそこに在るのではなく、成るために在る
苦悩の存在論 V・E・フランクル 新泉社 64ページ
と言っています。
人間は成るもの(自分自身が本当に成りたいもの)に成るためにあるのです。
成るものとは、神の世界にある、成るものを人間が獲得するということです。
人間と神の間には深い溝があります。しかしそれを少しずつ埋めて人間は神に近づくことができるのです。
そして、溝を埋め人間は成るものに成るのです。
これが存在(人間の世界)と当為(神の世界)の溝なのです。
存在(人間の世界)と当為(神の世界)
人間の世界には人間の次元(存在)があり、神の世界には神の次元(当為)があります。
この存在と当為の間にある溝をできるだけ埋めてイコールに近くしなければならないのです。
人間は今ここでの自分の現実の存在(実存)の次元が、自分の本当のあるべき姿かどうか、自分の中にある神{最も確かなものは良心である(フランクル)}と対話しなければなりません。
この世界の何千何万とある、こうでなければならないと、いう戒律の世界(当為の世界)から、人間は自分の努力によって「こうであるべきこと(当為)」を、実現していかなければならない義務があるのです。
この存在と当為の間には相当の緊張状態があります。
この緊張状態が、人間らしくするするものなのです。
我々人間は何時、いかなる時も、絶対的な当為を実現するように精神的に努力しなければなりません。
そして存在と当為の間にある溝を埋めて存在と当為を近づけることができるのです。
そうでなければ相対的な当為でさえ実現できないかもしれません。
もっとわかりやすく言えば、「赤」という色を作るとすると、私達は絶対的な「赤」を何時、いかなる時も、追求し、目指さなければならないのです。
そうでなければ相対的な「赤」も作り出すことはできないのです。
フランクルは、
もし相対的に善なるものを得ようとするなら、当然、絶対的に善なるものを得ようと努めなければならない
苦悩の存在論 V・E・フランクル 新泉社 63ページ
と言っています。
つまり、善いことを追求する時は、絶対的に善いことを追求しなければならないのです。
これが、存在と当為の間にある緊張状態なのです。
存在と当為はイコールにならない
宗教家やアセンションビジネスの主催者は、ただ単に次元上昇とか、悟りとかを口にしています。
自分自身の精神的次元がどれほどの次元なのか、まず自分自身の神と対話して問わなければならないのです。
しかし、私たち人間は、存在と当為を永遠にイコールにできません。
なぜなら人間は神そのものにはなれないからです。
もし存在と当為が一緒になるなら、人間は今ここで努力して生きていこうというモチベーションがなくなってしまい、永遠に怠惰の道に陥ってしまうでしょう。
だから神と呼ばれるエイリアンは人間を永遠に生かすことをしないで、寿命があるように作ったのです。
もし寿命がなく永遠だとしたら、今すぐに何かしなければならない、という気にならないでしょう。
人間は、まだまだ精神的次元が低いですし、アセンションする途上にいるのです。
そのように肝に銘じておかなければならないのです。
そして、人間一人一人の精神的な次元上昇の努力によって、
「こうでなければならない」という世界(当為の世界、ロゴスの世界)の中から、
こうであるという、今ある世界(現実の世界、実存の世界、存在の世界)の中に、
「こうでなければならないと」と言う「当為」を、
神のために、本当に実現させていかなければならないのです。
当為を現実の世界に実現させる
完結に言えば、規範(当為)を現実(存在)のものとする、ということです。
例を挙げるとすれば、なかなか大変難しいことですが、溺れている人を見たら、即飛び込んで助ける、というようなことを、実践するということです。
このことが、なんの躊躇もなくできる人とできない人がいるのも事実です。
このできる人とできない人の違いは何なのでしょうか?
すぐにできる人は、すなわち模範者は、そうすることが当たり前でした。
当たり前だということが本当にあるのでしょうか?
この模範者は今までの生涯の中で、一番初めは飛び込むかどうかを決断しなければならなかったでしょう。
この飛び込むという決断は、一回限りではなく、何度も繰り返してきて、この模範者は当たり前のことに成っていったのです。
当たり前であることの業績
フランクルはある人が、溺れている人を飛び込んで助けた時
誰かにとって、後から飛び込むことが自明であるということは、道徳的業績「である」と私たちは考える。なぜなら、ひとにとってなにかが自明であるということは決して自明なことではないからである。何かが自分にとって自明であるというところまで人を持っていくこと、それこそまさに道徳的業績である。何物も自明ではない。すべては自明になるのである。
苦悩の存在論 V・E・フランクル 新泉社 111ページ
と言って溺れた人を助ける行為は業績であると言っています。
善い人は、善いことを一回限りにはしておかないのです。
何度も善いことを繰り返して善い人間に成っていくのです。
フランクルはこの過去に何度も善を成して来て、そして「今ここで」この溺れている人を助けた模範者を一つの道徳的業績であると言っているのです。
良いことを何回も行って当たり前に成ったのです。
これは、当たり前の業績を成し遂げたのです。
「善いことが当たり前に成った時」人間は精神的次元の上昇を成し遂げるのです。
このことがフランクルの言う、「人間は成るために或る」のだということなのです。
要するに、人間がこうしなければならないということを、現実に移していくことが、人間として生まれてきた、私たちの使命なのです。
ヤスパースは人間を決断する存在だと言い表しました。
まさに日々の決断によって人間は成るものに成っていくのです。
私自身も含めて、隣人の模範となるように日々努力して精神的次元のアセンションをしましょう。
初めは、小さい善意から始め、無理せず、できることから、だんだんとアセンションを試みましょう。