この記事のココがポイント
人生を肯定することがアセンションへの道です。
人生肯定的世界観
「それでも人生にイエスと言う」というフランクルの著書があります。
それでも人生にイエスと言うことができる人間はどのくらいいるでしょうか。
もし、この言葉を本当に言うことができれば、アセンション(悟り)が出来たということになります。
フランクルは人生においてどのようなことがあっても、たとえ自分が死ぬことがあっても、自分の人生に対して「イエス」と言うことへの、人生肯定的世界観を唱えています。
この人生肯定的世界観は「無条件の意味への無条件の信仰」によってなされる人間の崇高な次元の高い言葉であり、崇高な精神的態度なのである。まさに高次元へのアセンションなのです。
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宗教心
フランクルは宗教的な人間は、この人生肯定的な世界観をすぐに受け入れることができるとしています。
なぜなら宗教的な人間は、自分の人生は神のご加護を得て成り立っているということを知っており、自分は神への使命感を持っているので、すぐに受け入れることができるのです。
これが信仰心なのです。
職業においても、宗教的な人間は、自分は神から与えられた天職だと理解しており、強い使命感をもって職業に就いているのです。
宗教的な人間は初めから高次元の精神を持つことができているのです。
フランクルが入った、アウシュビッツ強制収容所の中でも、宗教的な人間は、「神に栄光あれと」言って、堂々とガス室の中に入ることが出きたと言っています。
無神論者の宗教心
では、宗教的な人間ではない場合はどうであろうか、フランクルは強制収容所の中で、宗教的な人間ではなくても、人生において待っている誰か(親や恋人等)のため、ある何物か(仕事や趣味等、創造価値的なもの)のためなら、豚のごとくではなく、気高く生き延びて、天使となることが出来たと言っています。
おおよそ責任感のある者が収容所で生き延びることが出来たと言っています。
アメリカの新フロイト学派は、人間を自由を持ち未来を指向する存在としてみる考え方で台頭しました。
その新フロイト学派であるエーリッヒフロムは「何らかに向かって方向付けられていることが宗教心である」としています。
宗教心を、エーリッヒ・フロム流に考えて、宗教的な人間でなくても、価値や意味のある何かに精神を向けることが出来れば、宗教心は持つことが可能なのであり、アセンション(悟り)することが可能なのです。
問われた存在としての人間
「それでも人生にイエスと言う」この言葉は大変重みのある言葉です。なかなか口に出すのは難しいかもしれません。
しかし、人間は有限の命の中で、この人生という舞台の上で一体何ができるかを「神」から責任をもって答えを出せと問われた存在なのです。(フランクル)
我々は今現在、フランクルが入っていた、アウシュヴィッツ強制収容所というような極限の限界状況(ヤスパース)の中にいるわけではありません。
強制労働をさせられているわけでも、ガス室に向かわされているわけでもありません。
この比較的平和な世の中で生きているわけですので「それでも人生にイエスと言う」ことは決して難しいことではないはずです。
人間は、フランクルが言うように、今現在自分は自分の人生から何が得られるか、ではなく、自分は自分の人生の中で一体何ができるのかをもう一度、考えて決断し行動して、生きていかなければ、ならないのです。(これを人生観のコペルニクス的転回とフランクルは言っています。
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生きる理由を見つける
フランクルはたびたび、フリードリッヒ・ニーチェの言葉を出して「生きる理由があれば、ほとんど、どのような状態にも、耐えることができる」として、生活の中で生きがいを見出せばどんな状態であろうと生きていけると言っています。
つまり、生きる意味、生きがい、生きる理由を見つければどんな人生でもイエスと言うことができるのです。