この記事のココがポイント
フランクルの言葉の中に「それでも人生にイエスと言う」言葉があります。
この言葉の中に、無条件の意味への無条件の信仰による人生肯定的世界観が表明されているのです。
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人生の意味を発見することが人間の使命
フランクルは人間の意味への意思によって、人生の意味を発見することが、人間の使命であるとしています。
その意味は、体験することによってもたらされる体験価値(美しい風景を目にする等)、
創作活動によってもたらされる創造価値(芸実的な絵画を描く等)、
そして人間の最も崇高な価値は、苦悩に対する人間の態度価値だとし、
人間は体験価値、創造価値、苦悩の価値の三つの価値を実現し、人生の意味を発見する責任があると言っています。
苦悩にも意味があり、この苦悩の価値の意味は人間の世界を遥かに超えた世界であり、人間の崇高な究極的意味の世界である、としているのです。
苦悩する能力
人間は誰でも、苦悩する能力を持っています。
人間は苦悩に対する不屈の精神を持っています。
しかし、人間はまずこの能力を獲得しなければなりません。
人間は、苦悩を引き受けること、運命を肯定すること、運命に立ち向かうこと、によって人間は精神的向上を遂げることが出来るのです。
人間のこの苦悩する能力は、身体的、心理的にどのように制約されていても、誰にも侵すことのできない最後の砦なのです。
この苦悩する能力とは何でしょう?
フランクルはこの「苦悩する能力」を、精神の反抗力、精神の抵抗力、精神の反発力、精神的拮抗作用と言い、様々な呼び方や訳され方をされています。
要するに人間の精神的次元における能力のことです。
フランクルは人間であるならば、誰でも持っている能力であり、使うか使わないかは、その人の決断に掛かっていると言っています。
人間は、この「苦悩する能力」を獲得して、変えることのできない運命に対して、不屈の精神をもって克服し、自分自身を超越しなければならないのです。
この苦悩には意味があるのでしょうか?
人間は、自分自身を超越し苦悩を克服した時は、英雄的行為と同じように意味があることになります。
いや、それ以上の意味と価値があることになるのです。
無条件の神への信頼
人間の崇高な究極的意味である、苦悩の意味の世界は、神の領域の世界あり、この究極的意味とは思考の問題ではなく、信仰の問題です。
究極的意味への無条件の信仰は究極的存在への信頼、すなわち神への信頼、神への信仰の問題になるのです。
これが無条件の意味への無条件の信仰なのです。
人間が無条件の意味への無条件の信仰によって苦悩を克服した時は、神による祝福が得られるのです。
フランクルは神と人間の関係を示すときに、人間と犬の関係に置き換えて説明していますが、従順な犬は飼い主である人間を無条件で信頼しているので、従順に飼われているわけです。
人間も人生という舞台の中で自分というものを演じており、いつもどこからか、神に見られていると思って、自分の人生の舞台に毎日、立って自分を演じなければならないのです。
神に見られているからこそ、自分が、自分の人生において何ができるかを真剣に考え、人生の意味を追求する責任があるのです。
そうすることによって、どんなに自分の人生に絶望することがあったとしても、神の栄光のために私は生きたのだと、胸を張って、それでも人生にイエスと言うことができるのです。
ここに絶望を勝利に転換できる人生肯定的世界観が生まれるのです。
神のために生きること
人間は、神に対する責任において、生きていかなければなりません。
だから自分の人生において、どんなことがあっても、たとえ自分が死ぬことがあっても、「人生に対してイエス」と言わなければならないのです。
これが「無条件の意味への無条件の信仰」なのです。
この信仰の中に究極の超意味の世界が存在するのです。
人間は究極的には「無条件の意味への無条件の信仰」による人生肯定的世界観によって、神のために生きるべきなのです。
神のために生きるには覚悟がいります。
フランクルは、
・・・旧約聖書でも言われている。・・・ひとは神を「全心情、全霊、全力を尽くして愛せよ」と言われている。これは大変意味深長で、人間はどのような条件にあっても、いかなる状況にあろうとも、神を愛すべ駅ことを意味している。たとえ、人間からあらゆる相対的な価値の可能性が奪われても、多様な価値の序列全体の中で、また最後から二番目の価値、最高に次ぐ価値が・・・これは生命それ自身なのだが、人間から奪われそうになった時でさえも、愛すべきなのである。それとともにここで人間に要請されることは、それはすべてを引き渡し、放棄し、犠牲にする覚悟(Bereitschaft)である。それゆえ、これは無条件に犠牲になる覚悟である。
苦悩の存在論 V・E フランクル 新泉社 p162
と言っており、無条件の意味への無条件の信仰は、神への無条件的愛によって犠牲となる覚悟がいるのです。
無条件の意味への無条件の信仰ができるようになるためには、精神的次元の上昇を目指さなければならないのです。
アセンションは精神の向上心がなければならない
さて、アセンションという言葉に戻ってみましょう。
アセンションという言葉はスピリチュアル系の人たちが使っている用語です。
スピリリュアル系の人たちは、
地球や人類がより高い次元・波動に上昇することで、アセンションすると感覚が軽くなり、地球がアセンションすると願いが叶いやすくなり、自由になれます。
アセンションは自分に正直になり、本来の自分を取り戻すことで成立します。
自分が何をしたいのか、自分は何が好きなのかを追求すればアセンションはできます。
と言っています。
このことは何か軽い感じがしないでしょうか。
このように、「願いが叶う」「自由になれる」とういう言葉で巧みに誘導するアセンションビジネスが横行していますが、「願いが叶う」「自由になれる」というのはアセンションをしていくうえで、結果として出てくるものです。
初めから意図して願いが叶ったり、自由になったりしたら、人間であることの努力する価値とか、苦悩する価値を貶めてしまうのです。
フランクルは幸福とは追求するべきではなくて、幸福であるための理由(例えば、医者になるために勉強するとか、芸術家になるために創作活動を一生懸命するとか、何かを研究し続けて、ノーベル賞をもらうとか)を追求し続けて、人間の精神的努力によって、アセンションした結果として、幸福になると言っているのです。
人間は、無条件の意味への無条件の信仰によって、自分の神である「良心」と対話し、当為(であるべきこと)を実現し、その結果としてアセンションは起こるのです。
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人間は、無条件の意味への無条件の信仰ができるように、精神的な次元を向上させるようにを常に努力していかなければなりません。
アセンションは人間の精神的な向上の中で起こる悟りなのです。
アセンションは精神的次元の向上心がなければならいのです。