ココがポイント
フランクルの「意味への意志」は自己超越的です。
「意味への意志」は自己超越的
「意味への意志」というタイトルのブログ記事において、フランクルの言う「意味への意志」は人間が自分自身の生きる意味を発見する意志であると言う事を考察しました。
関連記事・・・意味への意志
このことは人間とは基本的に自分自身以外のものを志向するという人間の自己超越的性格を持ちうる存在であることを意味しています。
アブラハム・マズローは自己実現の欲求という独自の人間の動機理論を展開しました。
アブラハム・マズローのいう自己実現を唱えている心理学者や哲学者の大体は、自己実現欲求が人間の究極の人間の欲求として捉えています。
しかし、フランクルは、自己実現とは、
すなわち、人間は結局のところ意味を満たす・・・自己自身の内においてではなく、自己の外、世界において意味を満たす・・・その程度に応じてのみ自己を実現することができるということです。言い換えれば、自己実現は目標として設定されるものではなく、私が人間的実存の「自己超越」と呼ぶところのものの副次的結果として生じるものです。「自己超越」とという言葉で私が理解しているのは、人間存在は自自自信を超えて、自己自身ではない何か・・・何かあるものや誰かある人、すなわち満たされるべき意味や自己が出会う人間存在・・・に自己を差し向けるという根本的事実です。
意味への意志 V・E・フランクル 春秋社 p14
と言って、自己実現は人間の人生の意味を自己超越的性格を持つ「意味への意志」によって追求し、その努力の結果である副次的効果により後から起こる現象であるとしているのです。
つまり、自己実現は目的ではなく、自己超越的性格を持つ「意味への意志」によって意味を発見した時の、単なる副次効果であるとしているのです。
フランクルは始めはヒューマニスティックサイコロジー派に所属していましたが、上記のことからヒューマニスティックサイコロジー(人間性心理学)派のアブラハム・マズローやカール・ロジャーズら、から一線を引くことになりました。
考え方が全く違っていたのです。
ヒューマニスティックサイコロジーでは、自己実現の欲求は自分自身のための欲求と捉えられています。
しかし、人間は自分自身のためというより、自分自身以外のものを目的として志向する存在であり、目的論的存在であるということがフランクルの人間存在に関する考え方の真意なのです。
自己超越は実存の本質
人間の「自己超越的存在」と言う事をもう少し詳しく見てみましょう。
フランクルは自己超越は実存の本質であるということを強調し指摘しています。
しかしながら、実存は単に志向的であるだけでなく、また超越的でもある。自己超越が実存の本質である。人間であることは、それ自身以外の何ものかにさしむけられていることを意味する。
意味への意志 V・E・フランクル ブレーン出版 p61
しかしながら、実存はたんに志向的であるというだけでなく、超越的でもあります。自己超越は実存の本質です。人間であることは自分自身よりも他の何か重要なものに方向づけられているということです。
絶望から希望を導くために 春土社 (意味への意志 ブレーン出版増補版)p86
人間はなぜ生きているのか、何のために生きているのかを考えるのが人間存在の本質なのです。
自分自身以外のものに向かって志向するというのが人間存在の本質なのです。
ここに人間存在の自己超越的性格が含まれているのです。
人間の五感
人間の自己超越を考える上で人間の五感というを考えてみましょう。
- 視覚
- 聴覚
- 臭覚
- 味覚
- 触覚(皮膚感覚)
この人間の感覚器官である五感と呼ばれるものは、人間という自分自身、以外のものを把握するためにできているのです。
普段は五感は自分自身以外のものを感じるために利用しています。
人間はこの五感でこの三次元の現実世界を把握しています。
もし五感を人間自身のために使うことがあるとすれば、それは病気の時なのです。
例えば、目という感覚器官で自分自身の目を見ることは、鏡を使わなければ見ることはできません。
しかし、目が飛蚊症や白内障になると目の中のものが見えるようになります。
これは感覚器官である目が病気になり自分自分の目の内部が見えるようになったのです。
つまり、病気の時に初めて自分自身のことを人間は考えるようになると言う事です。
人間は基本的に自分自身以外の外部のものを把握し志向するために最初から身体が作られているのです。
人間の五感を考えてみると、自分自身以外のもののために人間の五感がある、つまり「自己超越」するために人間には五感はあると言うことになるのです。
現代に蔓延る還元主義によるニヒリズム
人間は自分の前にある客観的な意味(ギリシャ語ではロゴス)の世界、つまりロゴスの世界を目指して生きているのです。
しかし、現代人は自分は世界に向かって開かれている存在であることを忘れているようです。
人々は決まって自分自身のために快楽や権力を求めます。
ある程度の快楽や権力は生きていくには必要です。
しかし、一番重要であるのは、自分は何のために生きているのかと言う事ではないでしょうか?
何のために生きるのかを考えるとき人間は、人間は自分自身を超越し意味の世界であるロゴスの世界のことを志向して考えているのです。
この「何のため」というものが客観的な意味の世界であるロゴス(意味)の世界の中にあるのです。
昔、人間は、伝統を重んじることで自分たちが毎日を生きる意味を見出していました。
伝統もなくなり、神をも恐れない現代人は、自分は何で生きているのかわからず、何のために生きるという、生きる意味(生き甲斐)を見失ってしまっているのです。
フランクルはこの生きる意味を見失っている状態を実存的欲求不満と言っています。
実存的欲求不満は教育においても問題になっています。
実存的フラストレーションの主な表現―――退屈と無感動―――は、精神医学に対するのと同じように、教育に対する挑戦にもなってきているのである。
実存的空虚の時代には、教育は伝統と知識の伝達に自らを限定したり、自己満足してはならず、普遍的価値の崩壊によってもおかされないような、独自の意味を見出す人間能力を修練しなければならない、とわれわれはいってきた。独自の状況にひそんでいる意味を見いだす人間の能力は良心である。だから教育は、意味を見いだす手段を養っていかなければならない。ところが、教育はしばしば実存的空虚を増大させるのである。学生の空虚感と無意味感は、科学上の諸発見が示した方法、すなわち還元主義的方法によって強化される。学生たちは、人間機械論プラス相対的人生観の線に沿った教育え込みにさらされているのである。
意味への意志 V・E・フランクル ブレーン出版 p103
実存的フラストレーションの主要な兆候―――退屈と無感動―――は、精神医学に対するだけでなく、教育に対する挑戦にもなっています
実存的空虚の時代の中で、教育は伝統と知識の伝達に自らを限定したり甘んじたりするべきでなく、むしろ普遍的な価値が崩れ去ろうとも何ら影響されないような、独自の意味を見出す人間能力を磨かなければならないと私たちは語ってきました。独自の状況の中に隠された意味を発見する人間の能力とは良心のことです。ですから教育は様々な意味を見いだす手段を人に身につけさせなければなりませんが、実際はそうではなくて教育はしばしば実存的空虚を増してしまっているのです。学生の空虚感と無意味感は、科学上の発見がもたらした方法、つまり還元主義的方法によってさらに強くされています。学生たちは、人間機械論に加えて相対主義的的人生哲学の基本線従った教化〔教え込み〕にさらされているのです。
絶望から希望を導くために V・E・フランクル 春土社 (意味への意志 V・E・フランクル ブレーン出版 増補版)p135
現代人は教育においても、学生の実存的欲求不満を現代の科学技術によるこの還元主義によるニヒリズムによって助長されてしまっているとフランクルは言うのです。
現代の人間は還元主義によるニヒリズムによ実存的空虚感と無意味感を増し、精神の倦怠が起こっており、自分はいったい何のために生きているのだろうという実存的欲求不満を助長しているのです。
このように還元主義によるニヒリズムが蔓延している現代では自分は一体何のために生きているのだろうかという実存的欲求不満が蔓延してしまい、人間はみな生きる価値や意味を見失うのです。
現代の還元主義
現代の還元主義とは物質を細部にまで分解し、ある一つの要素に還元してしまいます。
- 人間はコンピューターに過ぎない
- この世はホログラフィックでできているというホログラフィック宇宙論(この世はフォログラフィックに過ぎない)
- この世はすべて粒子の波動に過ぎない
還元主義の言っている粒子の波動とは、量子論での物質の粒子の波動や{エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体}と言った目に見えない霊的な物質の波動も含む
これらの還元主義の考え方は現実というのは、人間の脳というコンピューターが世界の情報を読み取りそれを脳に投影したものに過ぎ
ないというのです。
人間は結局「・・・に過ぎない」
これが現代の自然科学主義の行き着く先なのです。
現代の自然科学主義において人間というものは、すべての感覚はあり、すべての実感はありますが、それはあくまで人間の脳というコンピューターで知覚された主観的な感覚であって、現実の宇宙は平面に記述された情報にすぎず、全ての本質は情報(本質主義)にあり、エネルギーと物質は副次的なものであるという考え方なのです。
これが究極の現代の還元主義なのです。
現代のニヒリズム
結局還元主義というものは「・・・に過ぎない」と言ってニヒリズム化(意味がない、無価値)してしまう主義です。
現代のコンピューター時代の還元主義はすべては「情報」に過ぎないとしています。
ニヒリズムとは虚無主義のことですが、決して何もない「無」であると言っているのではなく結局、物の価値や意味などないと主張しているのです。
関連記事・・・還元主義によるニヒリズム
自由なメモ
このブログサイトにおいて還元主義とニヒリズムについて何回か同じように述べています。
その他の投稿記事にも何回か繰り返し同じような記述があると思います。
何回も記載していることは読者にとって煩わしく思われるかもしれません。
もしそう思ったのでしたら、その部分は飛ばして読んでいただいてよろしいかと思います。
しかし、この趣味のブログにおいて、より重要なので投稿しているのだと理解していただければ幸いです。
管理者・・・金の茶葉
現代ニヒリズムへの反駁へ
現代のすべてのホログラフィック論者がすべてニヒリストであるとは思いません。
しかしこの「すべては情報である」という要素還元主義は、人間の実存的欲求不満を助長してしまう恐れがあるということなのです。
要素還元主義というものは物のある部分しか見ていないのです。
全体を見ることができないのです。
木を見て森を見ないのです。
つまり、小さいことに心を奪われて、全体を見通すことはできないのです。
フランクルの次元的存在論
関連記事・・・フランクルの次元的存在論
フランクルはニヒリズムを克服するために、人間の次元的存在論を提唱しました。
人間には身体的次元、心理的次元、精神的次元の3つがあり、人間は多様性があると同時にそれらはすべて統合されているという理論です。
人間はその時その時、身体的な面、心理的な面、精神的な面を統合的に表しているとするのです。
人間は多様であるにもかかわらず統合されているというものです。
人間は身体と心理面はホメオスタシスの原理が動いており、人間はコントロールすることが難しいが訓練することである程度は可能です。
ホメオスタシスの原理
関連記事・・・体と心と精神について
ホメオスタシスの原理は自律神経系、内分泌系、免疫系内で体内環境のバランスを保ち健康を維持しています。
人間のホメオスタシスは人間の意志とは関係なく動いており人間はある意味コンピューターによってロボットのように動かされていると言えるでしょう。
このホメオスタシスの原理は、心身相関によって人間の身体面と心理面を統合しています。
心身相関は心理ストレスや喜怒哀楽といった情動が体の調節(ホメオスタシスの原理)に影響を与え、さまざまな身体反応が生じる現象です。
心と体は一体なのです。
しかしこのホメオスタシスの原理には人間の自由意志が入り込むことは難しく、人間存在のロボットの部分であると言っていいでしょう。
最近では、マインドフルネス瞑想、やヨガ、自律訓練法等で、ホメオスタシスの原理を人間の意志で調節することが試みられています。
関連記事・・・マインドフルネスやメタ認知は、自己超越の能力です。
精神的次元
フランクルは人間の自由意志が届かない人間の身体的次元及び心理的次元の他に精神的次元があると指摘しています。
この精神的次元が人間が単なるコンピューターではない証拠になるのです。
精神的次元は人間の「意味への意志」を強くします。
そして、「意味への意志」は人間の最も強い意志であり、フランクルの言う「精神の反抗力」を生み出す場所なのです。
還元主義によるニヒリズムに陥っている人々には何かが欠けています。
それは精神の倦怠です。
自分の精神的次元を蔑ろにしてしまっているのです。
還元主義によるニヒリズムに陥っている人々は精神的次元を上昇することをやめてしまい、フランクルに言わせれば、アウシュビッツで豚のようになって、ただ単に生きているだけの人間と同じようになってしまうのです。
還元主義によるニヒリズムは人間の精神的次元を疎かに扱い、人間の精神的次元を倦怠化させてしまうのです。
なぜでしょうか?
現代の還元主義によるニヒリズムはこの世界を単なる「情報」に過ぎないなどとして、人間の生きる意味や価値を貶めてしまうからです。
現代の還元主義によるニヒリズムを反駁するためには、人間存在が自分自身のために存在しているのではないということを証明して見せなければなりません。
還元主義によるニヒリズムは人間はロボットであると主張します。
還元主義によるニヒリズムの過ちは、人間存在の身体的、心理的な内部機構の部分のみに焦点を当てて考えていることです。
人間存在は、身体的、心理的な部分の他に、人間の最も人間的な部分である精神的な部分をも考慮して、人間を全体的に考えていかなければ不十分であることを還元主義者たちに主張しなければならないのです。
還元主義者には、「もっと人間の全体を見ろ」と反駁しなければならないのです。
人間は基本的にロボットの部分と自己超越性を兼ね備えており、精神的な存在であり、意味への意志によって、自分自身を超越したもの(ロゴスの中の意味)のために存在しているのですから。