ココがポイント
苦悩は業績であり、志向された苦悩だけが苦悩でなくなるのです。
人間の「限界状況」
実存哲学者であるカール・ヤスパースはこの世界は「限界状況」の中にあるとしています。
そして、人間は私は死なざるを得ないし、苦しまざるを得ないし、戦わざるを得ないし、そうしてまた不可避的に責めに巻き込まれるとして、限界状況の意味を解いています。
人間は昔も今も、「限界状況」の中にいますが、これを引き受けることによって、初めて彼本来の実存にまで高めることが出来るのです。
これらを引き受けるには人間は、苦悩しなければなりません。
そして、苦悩は業績であるのです。
人間は苦悩を苦しみ抜くことが重要です。
苦悩を成し遂げることが人間に与えられた使命なのです。、
人間はこの限界状況の中で、苦しみ抜くことが精神的次元上昇への道でもあるのです。
苦しみ抜くこと
フランクルによる人生における実現すべき三つの価値
フランクルは、人生において実現すべき価値は創造価値、体験価値、苦悩の価値の三つがあるとしています。
創造価値
仕事をしたり、芸術作品を作ったりすることでもたらされる価値
人間の才能によってもたらされる価値
体験価値
芸術作品の鑑賞や自然環境の美しさの体験や人を愛する体験することでもたらされる価値
人間の五感と呼ばれる感覚器官を通してもたらされる価値
態度価値
観覧記事・・・フランクルのロゴセラピー、幸せとは何か
運命に対して耐えることによってもたらされる価値
変えることのできない運命に対して、人間の精神の反抗力によって、苦悩に耐えるという態度価値
創造価値は人間の身体と個人的センスがあれば創造するできます。
体験価値は人間の感覚器官を駆使すれば体験するできます。
しかし、この態度価値を実現するためには、人間は変えることができない運命に対して、耐えるという態度を取るという、苦悩する精神の反抗力という能力を獲得しなければなりません。
この運命に対してとる態度は人間の精神的次元における自己超越の能力によってはじめて、実現できることなのです。。
態度価値というものは人間を超越したところで実現することが出来る価値なのです。
態度価値は人間が苦悩することによってもたらされます。
つまり「苦悩する能力」が必要なのです。
まさに、「苦悩する能力」は人間の精神的次元の上昇が果たされたときに獲得できる能力なのです。
実存哲学者のカール・ヤスパースは人間は「決断する存在」であるとしています。
人間は運命を受け入れ、苦悩し、その苦悩に耐え、さらに、苦しみ抜かなければならない、と言う確固とした「決断」をしなければならないのです。
この苦しむという決断をするには人間の精神的次元にある、「精神の反抗力」を呼び覚まさなければなりません。
この「精神の反抗力」を養うために、日々人間は、精神的次元の向上を目指し努力していかなければならないのです。
苦悩は業績である
フランクルは苦悩は業績であるとしています。
苦悩とは、このように、何よりもまず業績であることができます。しかし、業績、つまり正しく毅然とした苦悩は、成就であるだけでなく、成長でもあるのです。苦悩をみずからに引き受けること、苦悩をみずからに、私は成長します。つまり、一種の新陳代謝が起こって、活力が増大するのです。
苦悩する人間 V・E・フランクル 春秋社 p128
ここで言っている苦悩というのは、は変えることのできない運命に対する苦悩のことです、変えられる状況であるならば、それは運命ではありません。
変えられる状況である苦悩であるならば、それは、ただの、マゾヒズムになてしまいます。
変えることのできない運命に対して、毅然とした態度を取った時の苦悩は一つの業績なのです。
苦悩することによって自分自身の精神的次元が上昇していくのです。
苦悩することは精神的次元上昇への道である
また、フランクルによれば、苦悩するということは、精神的次元をより高い段階に置くのです。
・・・事実をより高い次元に移し換えることによって、私は私自身を、私自身の実存をより高次の段階に置きます。まさにこれが、成長するということなので
苦悩する人間 V・E・フランクル 春秋社 p129
苦悩するということは、自分自身を超越しなければできないものです。
苦悩することは、様々な自分の精神的な問題と格闘し、「自分の死」という「犠牲」を払ってでも、自分を超越すると言うところまでもっていかなければならないのです。
これは精神的な次元がかなり高い段階にならないとできないと思いがちですが、実は誰にでもできることなのです。
それは、ある何者かのための苦悩であるならば、人間は苦悩し耐えることができるのです。
苦悩するということは、何かのための苦悩なのです。
人はある誰かや何かや、究極的には神のための苦悩ならば喜んで苦悩することができるのです。
苦悩する時の涙は勇気を持っていることの証
フランクルは苦悩する時は涙を流すこともあるが、それは勇気の証だと言います。
もちろんそこには「気が弱く」なる危険や、秘かに涙を流したりすることもあるであろう。しかし彼はこの涙を恥じる必要はないのである。むしろそれは彼が苦悩への勇気という偉大な勇気を持っていることを保証しているのである。
夜と霧 旧版 フランクル著作集 第一巻 p185
人は苦悩する場合は、時には気が弱くなって涙してしまうこともあります。
しかしその涙は恥ずべきことではなく、あなたが立派な、苦悩に対する勇気を持っているということの証なのです。
苦悩を引き受けること
・・・パティ・アウデ(pati aude)、あえて苦悩せよ。
この敢然さ、この苦悩はの勇気 これこそが重要なのです。苦悩を引き受けること、運命を肯定すること、運命に対して態度をとることが大切です。この道を歩んでこそ、私たちは真理に近づき、真理の近くに来るのです。それは、この道を歩んでこそ、できることであって、苦悩を恐れ苦悩から逃げるに道をとってはできないことなのです。
苦悩する人間 V・E・フランクル 春秋社 p135
苦悩を引き受けることは立派な人間の業績であり、この世に生きた証なのです。
苦悩を毅然とした態度で背負うとき一種の充足感が人間に溢れます。
この充足感は人間としてこの世に生まれてきたことが、本当に意味があることだと実感できる精神的次元の感動なのです。
志向された苦悩は、苦悩でなくなる
・・・苦悩を受け入れることが大切なのです。苦悩を受け入れ、容認することが出来るためには、苦悩を志向する必要があります。というのは、「飲む」とき、つまり苦悩を自らの魂と一体化させるときはじめて、「澄める至福の流れ出ず。」るからであり、そのときはじめて「光わき出ずる」からです。志向された苦悩だけが、苦悩であることを止めるのです。
苦悩する人間 V・E・フランクル 春秋社 p136
苦悩を人間が「自ら志向」して受け入れ容認する時に、不思議と苦悩ではなくなるのです。
逆説的ではありますが、苦悩が苦悩ではなく幸福感さえ感じることができるのです。
それだけ精神的次元が上昇した証であり、人間は自分を超越した次元に置かれるのです。
快感が志向されると、ただちに快感は快感でなくなってしまいますが、逆に苦悩を志向すれば苦悩は、苦悩でなくなるのです。
苦悩を志向するためには、苦悩を超越しなければならないのです。
苦悩は勝れて犠牲である
・・・苦悩を志向できるためには、私は苦悩を超越しなければなりません。言い換えれば、苦悩を志向し、有意味に苦悩することができるのは、何かのため、誰かのために苦悩するときだけなのです。つまり、苦悩は、意味で満たされるためには、自己目的であってはならないのです。
・・・意味に満ちた苦悩は、いつでも苦悩そのものを超越した何かに向かっています。意味に満ちた苦悩は、私たちが「そのために」苦悩する、その当のものを指し示しています。一言でいえば、意味に満ちた苦悩とは、勝れて(kat’ exochen) 犠牲なのです。
苦悩する人間 V・E・フランクル 春秋社 p137
人間が苦悩する時は、その苦悩には意味があるかどうかが問題なのです。
意味のない苦悩に苦悩することはできません。
意味のない苦悩に苦悩することは、単なるマゾイズムです。
その苦悩は何のための苦悩なのか、と人間は問うのです。
この何のための苦悩なのかが重要な問題なのです。
フランクルは強制収容所において精神的次元上昇過程にある人にとって重要なことは、
精神的に目覚めた人ないし目覚めることができる人にとって大切だったのは、まず生きること、次に哲学すること」という命法ではなった句ありませんでした。このことは請け合うことができます。反対に、大切なのはただ一つ、「まず哲学すること、次に死ぬこと」だったのです。大切なのは、生命の危機と死の脅威に直面して、死の意味を勝ち取ること、そして、毅然として死に赴くことだったのです。
苦悩する人間 V・E・フランクル 春秋社 p143
としています。
そして、フランクルはニーチェの「生きる理由がある人間はどのような状況に対しても耐えることができる」という言葉を使っています。
人間は生きる理由があれば、どのような状況であれ、生きていける
フランクルは、強制収容所の中では、生きる理由があれどのような状況ででも生きていけると言っています
その苦悩することによって生きる理由とは、
ある誰かのために生きることによって生じる苦悩
恋人や家族など
ある何者かのために生きることによって生じる苦悩
自分の信念など
究極には「神のために」に生きることによって生じる苦悩
「無条件の意味の無条件の信仰」による生き方
と言った、生きるために苦悩する理由があれば、人間はどんなことにも耐えることができるのであるとしているのです。
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何かのために犠牲となる覚悟
苦悩するためには、何かのために犠牲となる覚悟が必要です。
何かのために犠牲となることは「勇気」が必要です。
この「勇気」はオリンピックjで金メダルを取るとか、ノーベル賞を受賞することよりも、もっと高い次元の賞賛に値する人間の「態度価値」なのです。
ここでの「勇気」には人間の精神の反抗力が必要であり、犠牲となる覚悟をすることへの「決断」が必要なのです。
何かのために自分が犠牲となって苦悩する時に、人間は最も偉大な業績を人間は成し遂げることができるのです。
苦悩は無言でなければならない
正しく毅然とした苦悩は、いつも「無言の苦悩」なのです。
苦悩する人間 V・E・フランクル 春秋社 p146
苦悩する人間決して見せびらかしたりはしません。
無言で一人苦悩する時のみ、苦悩は業績となりうるのです。