ココがポイント
宇宙の中で人間はどう生きなければならないのでしょうか?
このブログにおいては、「人間とは何か」と言う事をフランクルの人生哲学を借りて考察しています。
また、このブログにおいて、マクロ的に宇宙にまで考察を深め、「人間とは何か」を考察するうえで、古代宇宙飛行士説を擁護しています。
ここでは、人間について古代宇宙飛行士説を元に考察したいと思います。
古代宇宙飛行士説(ゼカリア・シッチン説)
古代宇宙飛行士説とは、大体下記のような要約において各方面で述べられています。
我々人間が、今住んでいる太陽系の中にある地球上の人間は、太陽系の中のもう一つの惑星二ビル(惑星X)の住民であるアヌンナキ達が、自分たちが、二ビルに降り注ぐ宇宙線を回避するために金が必要となった、と言うことから話が始まります。
アヌンナキ達は、地球に金が多く存在することに目をつけ、地球に降り立ちました。
地球での金の採掘には困難を極め、アヌンナキ達は、地球上の生物に金を採掘させようと考え、自分たちのDNAを地球の生物に移植し労働力としての人間を造ったのです。
上記のことは、ゼカリア・シッチンがシュメールの粘土板を解析したことによって明らかとなりました。現在ではシッチン説はあまり支持されていません。本当のことは誰も見たことがないため、古代のことは、推測でしかありません。ただ、このブログにおいては、この説を支持していると言う事です。
この金採掘労働として造られた人間、これが旧約聖書のアダムなのです。
のちにアヌンナキ達は、知恵と知識を人間として生まれたアダムに与え、やがて文明を築けるようになり現在に至っているのです。
しかし、知恵を与えられた人間は後々様々な災いを行いました。
そして精神性が低い人間たちは争いが絶えなく、核戦争があちこちで起きてしまい、もうどうしようもなくなり、アヌンナキ達は、人間を何度か洪水を起こして人間を絶滅させ、また新たな人間を造っていったのです。
ノアの箱舟
古代の史記の中に、「ノアの箱舟の神話」があります、この神話にはさまざまあり、「シュメルの洪水神話(粘土板)」、「ギルガメッシュ叙事詩」、「旧約聖書創世記」、などにそれぞれ記述があります。
これらの記述はほとんど、惑星二ビルのアヌンナキ達の話なのです。
アヌンナキ達は太陽系の中にある自分たちの惑星二ビルが、地球に接近する時に、地場の影響から、地球に大洪水が起こるとに気づきました。
精神性が低い人間達を絶滅させるために、このことを黙っていました。
アヌンナキ達は未来の人間や動物たちを造るために、アヌンナキの一人の「ノア」に箱舟を造らせました。
これが「ノアの箱舟」なのです。
ノアの箱舟はある程度は大きかったのですが、地球上の生物を全部乗せることはできなかったでしょう。
しかし、生物からDNAだけを保存しておくことは可能なのです。
現代の技術でもDNAの保存は可能であり、実際に、各国において絶滅危惧種のDNAを保存しておく技術があり、現実に世界ではあらゆる動植物のDNAが保存されているようです。
ノアはあらゆる動植物のDNAをノアの箱舟に乗せ、災害が収まったらまた動植物を、また初めから作り直そうと考えたのです。
人間はアヌンナキから「智慧の実」をもらいその恩恵によって高度な文明を手に入れました。
しかし、人間の精神性があまりにも低く、何度も戦争や争いを起こしアヌンナキ達を困らせました。
アヌンナキ達は、人間や他の生物たちを滅ぼし、また創造すると言う事を繰り返していったのです。
宗教による啓蒙
アヌンナキ達は戦争や争いを起こすような、精神性の低い人間達を正すため、そして何とか精神的次元を高めるために、ブッタ、孔子、老子、ソクラテス、モーセ、イエス、ムハンマド、聖徳太子といった、偉大な聖人を利用して、人間達に、宗教や思想を広め、人間の精神性を高めようとして啓蒙していったのです。
これらの聖人たちはアヌンナキ達がある特定の人間を操り、作り出されたものです。
宗教は元は一つだったのですが、精神性の低い人間が知恵の実を食べたせいで、様々な解釈が行われました。
この「宗教」にも、人間の精神性の低さが災いし、「こちらが正しい宗教である」と言いながら各地で宗教戦争まで起こるようになるまでになりました。
今では、様々な宗教が現れ現在に至っているのです。
なぜ、人間は争いをやめないのでしょうか?
それは、もともと精神性が低く、煩悩に支配されているからなのです。
ここに、「神的次元上昇への道」を開く必要があるのです。
宗教は一つ
精神性が低い人間には「神」の概念が必要です。
しかし、科学技術が発展すると人間は神を恐れなくなってしまうのです。
結局人間が「知恵の実」を食べたせいで争いが起き、またアヌンナキ達に、また滅ぼされるという繰り返しが行われるだけになってしまいうのです。
この悪循環を断ち切るには、もう一度、精神的次元上昇への道を歩ませ、本来の宗教心を取戻さなければなりません。
それには、集団的宗教からの脱却が必要であり、個人的内部意識の世界である、最も神に近い、確かなものである「良心」に目覚めなければなりません。
人間が行っている宗教の中の教祖は所詮は人間なのです。
今現在の宗教は、神の名を騙り、カリスマ性を利用して、宗教心を創り出していますが、それは一種の洗脳なのです。
「今の宗教全部」がと言う事ではありませんが、洗脳して、民衆を従え、信者は利用されているにすぎません。
今地球上には様々な宗教がありますが、本来は一つであり、神は一つなのです。
「神」の解釈
フランクルの次元的存在論を借りて「神」を解釈してみましょう。
フランクルは、人間が体、心、精神と言う三つの領域を持つことを、簡易的に言い表すために、次元的存在論を展開しました。
フランクルは、人間を立体的三次元空間に人間を置き、三次元空間的三方向から光を当てそれぞれ投影させ、その陰は様々に違った形を示すことを示しました。
人間には体と心と精神があることを立体的に示したのです。
このフランクルの次元的存在論を利用し、「神」をまず、三次元的空間に置きます。
三次元空間に神を置き、様々な角度から光を当てて見て、それぞれの角度から光を投影してみると、神の形が様々に映し出されます。
その様々な角度から投影された神が、それぞれ神の解釈がなされ、様々な宗教が登場してきたと考えるのです。
そして、今では人間がそれぞれ、様々な形に投影された自由な「神」の解釈によって多数の宗教が生まれてしまったのです。
関連記事・・・フランクルの次元的存在論
多宗教の弊害
人間の多神教の弊害は、結局また争いを巻き起こし戦争まで起こしてしまいました。
これは、やはり人間の根底にある、煩悩が災いしているのです。
この宗教の弊害を克服するためには、人間の外部にある物ではなく、人間の内部に求めなければならないのです。
良心は誤りやすい
人間には、神を感知する、感覚器器官があります。
それは「良心」と言うものです。
このブログ記事「 意味への意志 」の中で、「良心は意味の感覚器官である」ことを考察しました。
関連記事・・・意味への意志
人間は人生の意味を発見する場合には、自分の「良心の声」を聴き人生の意味を発見します。
この「良心の声」は一体だれが発しているのでしょうか?
少なくとも人間が発しているのではありません。
宗教的な人間にはこの良心の声は「神からの言葉」だと分かっているのですが、宗教的でない人間も、知ってか、知らずか「神」から発せられた言葉を「良心」と言う感覚器官が直観して神の声を聴いているのです。
しかし、良心はすべて正しいとは言い切れません。
良心は感覚器官であり、人間が「良心」と言う感覚器官によって間接的に聴くので、神の声を聴き間違える事があります。
フランクルは次のように言っています。
しかし、もし人間が自分自身の人間性にそむくべきではないとすれば、たとえ誤りを犯す可能性があることを知っていても、人間は自分の良心に無条件に従わなければならない。私は、誤りの可能性は試行の必要性を免除しはしないと言いたい。ゴードン・W・オールポートも述べたように、「われわれは全く同時に。確信は半分のままで心の全部を込めることができる」のである。
私の良心が誤りを犯す可能性があるということは、別の人の良心が正しいという可能性を含んでいる。これが謙虚と慎みをもたらすのである。もし私が意味を求めようとするならば、私は、意味があるということを確信していなければならない。これ決して、いかなる種類の無関心主義をも意味しているのではない。寛容であるということは、私が他の人の信念を共有するという意味ではない。それは、他の人も自分の良心を信じ、それに従う権利があるのだということを、私が承認することを意味しているのである。
意味への意志 V・Eフランクル ブレーン出版 p79
しかし、もし人が自身の人間らしさに背くべきではないとするならば、たとえ誤る可能性あると分かっていても、自らの良心に無条件に従わなけらばなりません。誤る可能性は試みの必要性を免じるものではないと言えるでしょう。ゴードン・W・オールポートが記したように、「我々は確信半ばでありながら、全幅の信頼を寄せることができる」のです。
私の良心が誤る可能性があるということは、ほかの人の良心が正しいという可能性を含みます。これが謙虚さと謹みをもたらします。もし私が意味を探求するのであれば、意味が存在するということを私は確信していなければなりません。逆に、もし自分が意味を見出せると確信できないとしたら、私は寛容でなけらばなりません。これは、いかなるものであっても無関心主義では決してありません。寛容であることは、ほかの人の信念を自分がともにすることを意味するのではないのです。そうではなくて、それはほかの人が自らの良心を信じ従う権利に私が同意することを意味しているのです。
絶望から希望を導くために V・Eフランクル 春土社 p108(意味への意志 V・Eフランクル ブレーン出版増補版)
フランクルはこのように述べて、良心は誤りやすいけれど、自分自身の良心を信じて行動しなけらばならないと言っているのです。
しかし、他人の良心も、自分の良心も、誤りやすいということを考慮すると、他人を批判するということは間違いであり、忍耐と寛容の心が必要なのです。
精神的次元の上昇による「良心」の覚醒
この人間の誤りやすい良心を覚醒させ、少しでも「より良い神の本当の声を聴く」ようにするためには、人間の精神的次元の領域を上げていかなければなりません。
重要なことは精神的次元の上昇による「良心」の覚醒は、外部からの影響で上昇するのではなくて、常に自分自身の良心からの声を良く聴き、自分自身の精神の力で、道徳的な行動を心がけていくということです。
さて、外部からの影響とは、スピリチュアル系の誰かからのヒーリングによってや、あるカリスマ性のある宗教教祖によっての享受によっての影響下のことを言っています。
他人からによる精神性への影響には、マインドコントロールと言ったような他者の恣意性が入ってしまうからです。
50パーセントの道徳性
人間のモチベーションは達成率50%で最高になることを、このブログの「コイントスに見る人間のモチベーション 」という記事で述べました。
関連記事・・・コイントスに見る人間のモチベーション
前記で記述したフランクルの書籍からの引用にもあった、ゴードン・W・オールポートの「確信は半分のままで全身全霊を込めることができる」ので、自分の良心を50%の確率で信頼ができるのであれば、堂々と道徳性を発揮していくべきなのです。
この道徳性は50%ですが、繰り返していけば100パーセントに近づくことができると思うのです。
このブログのタイトルでもある「宇宙と人間」と言うテーマで、人間をマクロ的なところから考察を試みました。
最後は、ミクロ的に人間一人一人の良心に訴えかけなければ、いずれ人間は滅び、この宇宙で繫栄することはできないということです。
古代宇宙飛行士説では、人間はアヌンナキの子供であるわけですが、知恵を与えられ、低いかもしれない精神性を与えられました。
しかし、人間はまだ精神性は低いところにとどまっています。
人間にはそれぞれ「良心」があります、この良心の中に精神的な50%の道徳的なモチベーションによって、精神的次元を上昇させて必ず、人間は宇宙で生きる価値があるものになれると思うのです。