ココがポイント
人間性心理学のマズローやロジャーズへのフランクルの批判
人間性心理学(ヒューマニスティック・サイコロジー)とフランクル
人間性心理学(ヒューマニスティック・サイコロジー)は1960年代に、心理学の第三勢力として登場しました。
心理学の勢力は、第一勢力の精神分析であり、第二勢力は行動主義で、第三勢力であるこの、人間性心理学(ヒューマニスティック・サイコロジー)で、やっと人間性を回復する心理学が生まれたとして評価されました。
機械論的で物質主義的な第一や第二の心理学を超えて人間の人間性を見直す心理学として台頭したのです。
フランクルも人間性心理学(ヒューマニスティック・サイコロジー)に一時的に加わったことがありました。
フランクルは、ヒューマニスティック・サイコロジーの機関誌に論文を発表しています。
日本語にも訳されており、「人間性の探求(A.J.サティック/M.Aビック編)産業能率大学出版部」という本で翻訳されています。
しかし、見解の相違から、後に少し距離を置き始めました。
人間性心理学への批判
アブラハム・マズローの「自己実現」について
マズローは人間の欲求を5段階の階層に分けました。
第一段階・生理的欲求
第二段階・安全欲求
第三段階・社会的欲求
第四段階・承認欲求
第5段階・自己実現欲求
これらの欲求は階層構造になっており、自己実現欲求が一番上位の欲求であり、最下位の生理的欲求が満たされると、段々と上位欲求に移行していくというのです。
フランクルは、「自己実現」自体を目的にしてはならないと言っています。
自己実現は意味充足の結果であるとしています。
第6段階「自己超越」
マズローは晩年には、第6段階段階に「自己超越」の段階があると主張しています。
このことはフランクルの人間の自己超越という考え方の影響が多くあると思うのです。
フランクルは、
実存は単に志向的であるだけでなく、また超越的でもある。自己超越が実存の本質である。人間であることは、それ自身以外の何者かにさしむけられていることを意味する。
意味への意思 V・E・フランクル ブレーン出版 p61
実存はたんに志向的であるというだけではなく、超越的でもあります。自己超越は実存の本質であす。人間であることは自分自身よりも他の何か重要なものに方向づけられているといういおとです。
絶望から希望を導くために V・E・フランクル春土社 p86 (意味への意思 V・E・フランクル ブレーン出版増補版)
と言っており、人間は基本的に自己超越的だと言っています。
またフランクルは、
自己実現は人生の志向性の無意図的効果である、と私はいいたい。
意味への意思 V・E・フランクル ブレーン出版 p44
自己実現は人生の志向性の無意図的結果と私は主張したいと思います。
絶望から希望を導くために V・E・フランクル 春土社 p68 (意味への意思 V・E・フランクル ブレーン出版増補版)
と言っており、
自己実現は、究極の目的ではなく、人間の「意味への意思」によって志向された、「人生の意味」の充足の効果であり、人生の意味を充足した結果として自己実現が起こると言っているのです。
自己実現を目標とするのは、本末転倒であり、自己実現が可能な、ある何かや誰かや何者かといった自分にとって「意味」あるものを志向して努力することが人間に与えられた使命なのです。
その努力の結果として、自己実現することが可能なのです。
強制収容所での「自己超越」
フランクルが入った強制収容所での中では、マズローの欲求5段階の欲求のすべてが満たされていませんでした。
しかし、ある囚人はシェーマ・マルセイエーズと言って、ガス室に毅然とした態度で入っていった人間を見ています。
このガス室に毅然とした態度で入っていった人間は、見事に自己を超越して死に向かっていったのです。
マズローが提示した、欲求の5段階の「自己実現」よりもさらに上の6段階目の「自己超越」を果たしたのです。
マズローのいうすべての欲求が断たれていたのにも関わらずにです。
フランクルも人間の意志を快楽への意志、快楽への意志、意味への意志と3つに分けました。
しかしマズローのような階層ではなく、3次元的空間に人間を置いて、そこに3方向から光を当てて、それぞれ違った形に投影された
ものを、それぞれ身体(快楽への意志)、心理(快楽への意志)、精神(意味への意志)と3つに分離して考え、それら3つは別々で
はなく、多様の統一体をなしているのが人間である、と独自の次元的存在論を展開しています。
このことを、人間性心理学では、どのように説明するのでしょうか?
「自己実現」は人生の目標ではない
また、フランクルは、人生の目的は「自己実現」という単なる自らの可能性の追求ではなく、問題は、人間が自分自身にとって意味のある、ある課題への没頭であり、その課題を追求し続けていった結果、自己を実現することが出来るというのです。
自分の中にある可能性の追求ではなく、自分自身以外のある課題を追求することが問題なのです。
つまり人間の自己超越性が人間性心理学(ヒューマニスティック・サイコロジー)では見落とされているのです。
人間は自分自身のためにあるのではない、ということが見過ごされているのです。
また、人間は悪魔になる可能性もあるので、この悪魔になるという可能性も自己実現と結びつけるのか、疑わしいでしょう。
人間は精神的な次元を知り、この次元を向上させていかなければならないのです。
それが人間に与えられた使命なのです。
カール・ロジャーズのエンカウンターグループについて
エンカウンターグループとは、カール・ロジャーズが開発した集団心理療法です。
カール・ロジャーズも人間性心理学(ヒューマニスティックサイコロジー)の一人です。
カール・ロジャーズは積極的傾聴法(アクティブリスニング)を開発しました。
その応用がエンカウンターグループです。
関連記事・・・自分はアセンションしたからと言って、人間は一人では生きられない
積極的傾聴法(アクティブリスニング)というのは、相手の立場を考えながら、無条件に積極的に、相手の感情まで読み取って、聴くという方法です。
この積極的傾聴法をエンカウンターグループの中でも取り入れられ、対話がなされますが、フランクルはエンカウンターグループの中での対話は、個人の内面的な心理的なもの、悲しみ、怒り自体に目が向けられてしまい、それがかえって反省過剰になり神経症の症状がかえって悪化してしまうというのです。。
アクティブリスニングが、積極的傾聴法で行われた、出会いによって人間の人間性を回復してきましたが、さらにその対話が「意味の次元」を志向しなければならないとフランクルはいうのです。
意味の次元とは何でしょうか?
フランクルの言うロゴスとは、人生の意味や価値の世界です。
人間はロゴスの中のある意味や価値を認識し実現するために生きているのです。
ロゴスの中のある意味や価値を認識し実現するためには、フランクルの言う、主観的に精神的な努力、すなわち「愛」が絶対的に必要です。
この人間の主観的精神的努力である「愛」によって人間の「意味への意思」が発動し、客観的に精神的な「ロゴス」の世界が志向されるのです。
人間はこの「愛」という主観的精神的な努力によって、人間は、例えば、何物かのため、あるいは、誰かのため、ある大義名分のため、ある友人のため、究極的には「神のため」に生きることが出来るのです。
関連記事・・・量子力学とスピリチュアルと愛
フランクルの言うロゴスとは、人間は、何物かのため、あるいは、誰かのため、ある大義名分のため、ある友人のため、究極的には「神のため」に生きるという、人間が人生の意味を求める精神的な意思、つまり「意味への意思」が求める「ロゴスの世界(客観的意味の世界)」のことを言うのです。
フランクルは、
しかし私が言いたいのは、どんな対話も、それがロゴスの次元に入っていかなければ、本当の対話ではないということである。ロゴスのない対話、何らかの志向対象への方向性を持たない対話は、実は、独り言が相互になされているにすぎない、二人の人間によってなされている単なる独り言にすぎない、というこということである。
生きる意味を求めて V・E・フランクル 春秋社p104
として、ロゴスを認識した対話を重視しています。
エンカウンター・グループや感受性訓練には、対話にロゴスの領域が考慮されていない
フランクルは、対話というのは、お互いの存在の意味を持って出会い、お互いにロゴスについて語らなければならないというのです。
出会いという言葉はもともとは、実存主義者であるマルティン・ブーハーやフェルディナンド・エプナによって強調されました。
フランクルは、
・・・マルティン・ブーハーがフェルディナンド・エプナとともに、人間存在を基本的に我と汝に対話によって解釈するなら、我と汝が自分たち自身の外部にある意味を志向して、自分たち自身を超越しない限り、その対話は失敗するということを、われわれは認識しなければならない。
意味への意思 V・E・フランクル ブレーン出版 p7
・・・マルティン・ブーバーが、フェルディナンド・エープナーとともに、人間存在を基本的に我ー汝に対話によって解釈するならば、我と汝が自分たち自身の外側にある意味に言及せず、また超越しないかぎり、その対話はそれ自体敗北に終わることを私たちは認識しなければなりません。
絶望から希望を導くために V・E・フランクル 春土社 p21 (意味への意思 V・E・フランクル ブレーン出版増補版)
として、汝と我の対話のなかで、自分たち自身以外の意味を志向して自分たちを超越すべきことを提唱しています。
また、フランクルは、
ブーバーやエプナーによって深められてきた伝統的な出会いの概念とは対照的に、ほとんどの人間性心理学の文献に出てくる一般的な出会いの概念はというと、依然として古臭い単子論的な心理学のままである。
生きる意味を求めて V・E・フランクル 春秋社p106
として、エンカウンター・グループや感受性訓練では、まだ精神分析や行動主義の概念の中での「出会い」が行われているとして批判しています。
さらに、フランクルは、
エンカウンター・グループや感受性訓練といったグループの中で患者たちは、自分自身を丁寧に観察し、見つめるように促されており、そして、さらに重要な点は、グループのメンバー一人一人が、患者の中にあるものならどんなものでも、際限なくいつまでも、それをグループの中で話し合うようにと患者を励ましてしまうからである。
生きる意味を求めて V・E・フランクル 春秋社p127
として、フランクルは、エンカウンター・グループや感受性訓練といったグループの中で患者たち自身の内部のの問題を過剰の取り上げられていることに疑問を感じているのです。。
メンバーの劣等感や幸せな感情といった心理学的なファクターがエンカウンターグループによって反省過剰(劣等感)や意図過剰(幸せな感情を過剰に求める)が起きて、かえって人間関係やグループの中の人間自身の心的状況が悪くなってしまうのです。
出会いによって人間の精神的次元を上昇させるためには、フランクルの言う、客観的に精神的なロゴスの世界を鑑みなければならないのです。
この客観的に精神的なロゴスを考慮に入れ、ロゴスを志向対象としたときに、精神的次元上昇が起こるのです。
客観的に精神的なロゴスとは、一回性と唯一性を持つ人間が、ある何か、ある誰か、あるいは何かの価値といったもの、さらには、人生の意味(ロゴスの中の物)です。
要するに、一回性と唯一性を持つ人間二人の実存的な出会いは、お互いの人生の意味を持って出会うのです。
そしてその対話は意味の世界すなわちロゴスの世界を、お互いに志向した対話が求められるのです。
これが精神的次元上昇への道なのです。