ココがポイント
「マインドフルネス瞑想」「メタ認知」は人間の持つ「自己超越の能力」で簡単にできます。
自己超越
「自己超越の能力」と聞くと何やら、オカルトっぽい印象やスピリチュアル的な印象があります。
しかし、この「自己超越」というものは、人間であるならば、誰でも持っている基本的な能力なのです。
人間であるということが、そもそも自己超越的であるのです。
別に何も難しいことでも、なんでもありません。
近年、マインドフルネス瞑想や、メタ認知という言葉をよく耳にします。
これらも、人間の自己超越の能力によって可能となるのです。
マインドフルネス瞑想講座とか、ワークショップとかいったものも、巷では行われているようです。
これらの事は、本来人間に備わっている、「自己超越の能力」で行うことができるのです。
さて、自己超越とは何なのでしょうか?
自己超越は実存の本質である
アウシュヴィッツ強制収容所から奇跡的に帰還した、精神医学者であるビクトル・E・フランクルは次のように述べています。
実存は単に志向的であるだけではなく、また超越的でもある。自己超越が実存の本質である。人間であることは、それ以外の何ものかにさしむけられていることを意味する。
意味への意思 V・E・フランクル ブレーン出版 p61
実存はたんに志向的であるというだけでなく、超越的でもあります。自己超越性は実存の本質です。人間であることは自分自身よりも他の何か重要なものに方向づけられて言うと言う事です。
絶望から希望を導くために V・E・フランクル 青土社 p86(意味への意思 V・E・フランクル ブレーン出版増補版)
と言っています。
人間とは、自分自身を超えたもの、つまり自分自身以外の、ある何か、ある誰かを常に志向して生きているということです。
普段の生活の中で考えてみてください。
通常の健康的な人間ならば、朝目が覚めて、
今日は「仕事に行かなければならない」とか、
今日は、「ゴミ出しをしなければならない」とか、
今日は休みだから「何をしようか?」とか、
自分自身以外の事に意識が向いていると思います。
しかし、自分自身の身体的、心理的にダメージがある場合はどうでしょうか?
その時は、自分自身の事に意識が向きます。
通常の一般的な人間は自分自身が病気の時以外は、自分の事以外の事に意識が向けられているものなのです。
自分自身以外の事や物を考えられるというのはその時点で、すでに自己超越的なのです。
人によっては、自分自身の具合が悪い時にでも、他人の事を考える人もいるかもしれません。
そういう人は精神的な次元が高い人なのかもしれません。
これが一般的な人間の意識だと思います。
自己超越という言葉は、五段階欲求説を唱えた、アブラハム・マズローも唱え始めました。
マズローは、人間性心理学に次ぐトランスパーソナル心理学を提唱し、自己実現の欲求のさらに上の段階に「自己超越の欲求」があるとして、晩年になってから付け加えたのです。
しかし、この「自己超越」は「欲求」として捉えていいのでしょうか?
「自己超越」という言葉は、マズローや、カール・ロジャーズらの論文と共に、「人間性心理学」の学会論文の中で、フランクルも論文を出して次のように述べていました。
人間の実存の特徴となる、特に人間的な現象が2つある。その第一は、人間の自己客観視の能力によって構成されている。もう一つの能力は、自己超越の能力である。事実、人間存在は何か人間存在以外のものを常に指向し、またそれに向けられているのが、人間存在の本質的な特徴である。
人間性の探求 ヒューマニスティック・サイコロジー 産業能率短期大学出版部 p75
フランクルは、「実存」すなわち「人間」は特徴的に「自己客観視の能力」と、「自己超越」の能力の2つが、元々備わっているものとして述べているのです。
つまり、自己超越は人間に元々備わっているものですから、「欲求」ではないのです。
欲求というものは、自分自身のためという概念が入っています。
自己超越は、自分以外のもののために志向するのであり、自己目的のために志向するのではないのです。
関連記事・・・フランクルのロゴセラピー
自己客観視の能力
フランクルのロゴセラピーの療法の一つに逆説志向という療法があります。
この療法は人間の「自己客観視の能力」を利用した療法です。
この治療は、強迫神経症者に、自分の恐れているものを期待しそれを望むように患者を勇気づけるのです。
そうすることによって、患者はユーモアと共に自分自身の恐怖症を客観的に捉えられるようになり、つまり自己客観視ができるようになり、症状に対する他自分の態度を変容することができるようになるのです。
このことは、人間が自己客観視の能力を持っているからできるのです。
患者は、自分自身の症状を客観的に見て、自分自身の強迫症状をユーモアーによって笑い飛ばすことができるようになるのです。
逆説志向は自己客観視の能力を応用した治療法です。
東洋では、世阿弥の言葉で、「離見の見」という言葉があります。
自分自身を自分から離れたところから客観的に見ることを世阿弥は「離見の見」と言いました。
東洋では昔から瞑想やヨーガといったものがあり、自分自身を客観的に見る努力をしてきました。
自分を客観的に見ることは誰でもできます。
自分自身を客観的に見るということも、実は人間の自己超越の能力なのです。
自己超越の能力
フランクルのロゴセラピーの療法のもう一つは反省除去法です。
この療法は、人間は自分ではない何かを志向する動物であるという基本概念に基づいたものです。
人間は元来、自分のためにあるのではない、自分以外の、ある何かや、ある誰か、を志向して生きています。
つまり、自分自身を超えたものを志向しているということです。
日頃の自分の行いをよく考えてみてください。
自分以外のものに常に、自分の意識が常に向けられているのです。
自分自身に意識が向けられるときはどんな時でしょうか?
自分が病気になった時です。
反省除去法は、患者の恐怖症状等から目を背けさせるために、自分以外のものを志向するように仕向けるのです。
この時に患者は自分自身の症状から解放されるのです。
人間が病気の時は、自分自身の事を常に考えてしまい、自分はダメになってしまうのではないかといった、ネガティブな感覚に苛まれてしまい、それが自分自身の感情の中でネガティブ志向が増幅して益々落ち込んでいってしまうのです。
そこで、反省除去法では、自分自身以外の事に意識を向けさせるということを患者に指導するのです。
例えば、ある仕事とか家事とか何かへの献身とか、自分自身以外の事を志向させることによって、自分への反省過剰を抑制するのです。
このことは、日本における神経症療法である、森田療法においても同じような、作業療法といったようなことを行って、患者自身の反省過剰を抑える方法を取っています。
自分自身以外のものを志向させるということは、人間本来の姿である自己超越的志向に戻すということであり、人間の自己超越の能力を取り戻させる方法なのです。
関連記事・・・フランクルのロゴセラピーと森田療法
愛と良心
人間の自己超越で最も顕著なものは、愛と良心です。
フランクルは愛と良心について、次のように述べています。
この二つは、別の独自な人間の能力、自己超越の能力の最も顕著な表現である。人間は自己を超越して、他の人間存在や意味を志向する。愛は、人間をして他の存在を、まさにその独自性において把握せしめる能力である、と私は言いたい。良心は、人間をして状況の意味を、まさにその独自性においてとらえさせうる能力であり、意味は究極的な分析においては独自なものである。個々のあらゆる人も独自である。
意味への意思 V・E・フランクル ブレーン出版 p21
この二つは、他の独自な人間の能力、自己超越の能力の最も著しい表明なのです。人間は他の人間存在に向かうか意味に向かって自己を超越するのです。愛は人間に他の人間存在をまさにその独自性において把握させる能力である、と私は言いたいのです。良心は人間に状況の意味をまさにその独自性において把捉させる能力であり、意味は最終的な分析において独自なものと言えるでしょう。個々人もあらゆる人々も独自な存在で、究極的にすべての人間は代替不可能なのです。
絶望から希望を導くために V・E・フランクル 青土社 p37(意味への意思 V・E・フランクルブレーン出版増補版)
愛と良心は人間が人間であることの、最も基本的な自己超越の能力であり、人間を人間たらしめる究極なものなのでです。
考えてみてください。
愛の行動や良心の行動は、自分自身の身を捧げることによて行われています。
自分自身のために愛とか良心を使っている人間はいませんよね。
愛と良心は自分自身以外の何かに身を捧げることによってはじめて達成することができる、アブラハム・マズローの理論から言えば、至高体験であり自己実現なのです。
人間は、愛や良心といった、自己超越の能力を遂行することに応じて、結果として至高体験や自己実現ができるのです。
マインドフルネスとメタ認知について
マインドフルネスとはウキペディアでは、
「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」
ウキペディア
と定義されています。
1979年にジョン・カバット・ジンが、心理学の注意の焦点化理論と組み合わせ、臨床的な技法として体系化しました。
現在では、マインドフルネス瞑想といって、瞑想によって今に集中し、目の前の事に注意を向けることを集中的に行う修行のような方法も行われています。
マインドフルネス瞑想は東洋の座禅やヨーガを西洋に取り入れたものです。
またメタ認知という言葉があります。
メタ認知とは、「客観的な自分」とか「もう一人の自分」といった、世阿弥の「離見の見」と同じで、自分自身を高い次元から観察しているという感情認識の事です。
要するに、フランクルの言う自己客観視の能力による感情認知の事をメタ認知というのです。
マインドフルネス瞑想によって、このメタ認知ができるようになっていくのです。
東洋での瞑想やヨーガの最終目標は、自分自身が「無」になることを目指しています。
「無」になることができると「悟りを開い」たと言える段階になるようです。
無になるとは何もなくなるという意味ではありません。
人間は、ただ目をつぶって瞑想するだけでは、迷いや煩悩がどこからともなく湧いてきて、心がざわついている状態になってしまいます。
東洋的に本当に「無になる」つまり「悟りの境地になる」というのは、迷いや煩悩を断ち切った状謡に自分自身を持っていくことです。
ここまでくると、ブッタの教えが、どうのこうのと難しくなってしまいます。
西洋で発展していった、マインドフルネス瞑想によるメタ認知は、難しい修行ではありません。
現代における西洋的なマインドフルネス瞑想は、「今、ここで」起こっている、自分の意識である感情をゆっくり味わうということを目的とするものなのです。
実存哲学で言っている、「今、ここで」をじっくり味わうことなのです。
言ってみれば、人間本来の生き方である、「今、ここで」をじっくり体験することなのです。
マインドフルネス瞑想をすることによって、自己超越が行われ、メタ認知ができるようになります。
マインドフルネス瞑想の方法
マインドフルネス瞑想の方法には様々な方法があります。
自分が一番リラックスできる方法なら、要は、何でもいいのです。
マインドフルネス瞑想に一番重要なことは、人間が独自的で、一回的な、今という、生きている、この瞬間をじっくり味わうことなのです。
しいて言えば、瞑想する時間を5分でもいいから作ることです。
自分で瞑想法を探してください。
別に、ネットのワークショップや、ヒーリング、チャネリング等は絶対に必要ありません。
なぜなら、自己超越は実存の本質なのですから。
- 呼吸瞑想
ありのままの呼吸を感じる瞑想
- 歩行瞑想
ありのままの歩行を感じる瞑想
- 食事瞑想
味わって食べる瞑想
- ボディスキャン瞑想
身体のあらゆる部分の感覚に意識を向ける瞑想
ボディスキャン瞑想と似たものに、自律訓練法というものもあります。
これは自己催眠によるリラックス効果があります。
自律訓練法には自分でできるものから、指導者の下で行うものまで様々です。
マインドフルネス瞑想にはこのように様々な方法がありますが、要するに、いま、ここで、自分が生きているということに集中しそれを実感するということです。
ヨーガや瞑想修行のような完全な無の境地になることではありません。
瞑想中に様々な雑念や煩悩が出てきてたとしても、それに囚われず、ただ自分自身が、五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)で感じたことを味わうことが重要なのです。
そうすることによって、セルフコントロール(自分自身をコントロールすること)ができるようになります。
セルフコントロールができるようになると、何事も一呼吸置くことによって心に余裕ができて、メタ認知がより明確になります。
また、セルフコントロールができるようになると「完全な悟り」でなくても「プチ悟り」ができるようになるのです。
マインドフルネス瞑想の効果
科学的な効果としてはネットで調べると大体次のような効果があるようです。
リラックスして、ストレスが激減
頭の中が整理されて、仕事が進む
アイデアが出やすくなる
集中力がアップする
記憶力や学習効率があがる
不眠症が改善する
大きな成功を手に入れられる
メンタルの安定
ストレスに強くなる
免疫力が上がる
ポジティブになる
共感力やコミュニケーション能力が上がる
「マインドフルネスの感覚を持つと今この瞬間を生きられるようになる」
過去や未來に囚われなくなる
過去や未来に囚われない
過去の後悔未来の不安に押しつぶされない
今ここを生きると集中力幸福度が高い
脳の回線を整える
脳の前頭前野を鍛えられる
インターネット上
これらの科学的効果が、グーグルやフェイスブック等の会社でもメンタルヘルスとして取り入れられている要因ではなのでしょうか。
「意味への意思」の再確認
さて、自己超越の能力、でマインドフルネス瞑想によりメタ認知がスムーズにできるようになったとします。
しかし、人間は一人では生きてはいけません。
出会うべき他の存在との関係が重要となってくるのです。
人間は、母親の体内からでて、実存哲学からすれば、この現実世界に「投企」された存在(投げ出されている)なのです。
人間は、この世界、出会うべき他の存在と実現すべき意味で充実している世界に投企されているのです。
人間が生まれ出たこの世界は、様々存在と出会います。
それはある人や、ある物や、ある事に出会います。
そして、自分自身が生まれ出て、存在の意味を求めて探求し、生きているのです。
これが人間の「意味への意思」とフランクルが呼んでいるものです。
この「意味への意思」も自己超越の能力です。
自分とは何なのか、自分が生きているとはどうゆうことか、自分は何のために生きているのか、という自分の存在の意味を求めるといった「意味への意思」を持つことが、本来の人間存在なのです。
意味への意思によって、ある人や、ある物や、ある事に出会って、これが自分の本当の生きていることの意味であると感じた時、ある人や、ある物や、ある事に全身全霊をもって身を捧げることができるのです。
これが本当の生き甲斐というものであり、悟りの境地と言えるものなのです。
マインドフルネス瞑想やメタ認知は人間の「意味への意思を」再認識できる場を作り出してくれます。
マインドフルネス瞑想やメタ認知は人間の基本である自己超越の能力で行なわれ、意味への意思を再認識する場所なのです。
この自己超越の能力はフランクルが次元的存在論で示した、身体的次元、心理的次元、精神的次元の三つの次元の中の、精神的次元で使われるものなもです。
この精神的次元こそ人間の、最も人間的な部分であり、今ここでを生きる、真実の次元です。
人間は、精神的次元で生きていなければ、生きているということにはなりません。
マインドフルネス瞑想により訓練されたメタ認知によって、精神的次元の向上が行われます。
人間であることは、この精神的次元における、自己超越によって生きているのです。
マインドフルネス瞑想でメタ認知は精神的次元に生きていることを真に、実感することができます。
人間は、今ここで生きていることに感謝して生きなければならないのです。
自己超越と自己客観視の能力は人間の特有の能力です。
人間が自分自身の存在の意味が何らかの障害(身体的、心理的、社会的障害)で阻まれた時人間の意識は世界ではなく自分自身に向けられます。
そうすると何が起こるでしょうか?
人間は自分の「意味への意思」が阻まれると、権力や快楽で自分自身を満たそうとするのです。
しかし人間には精神的なものが残されています。
人間は肉体的、心理的、社会的にいかに制約されようとも、精神的次元は制約されず自由ののです。
この精神的次元ににはもう一つの、いちばん強固な自己超越の能力が存在します。
それが、フランクルが「精神の反抗力」と呼んでいるものです。
人間は、自分の身体的、心理的、社会的な様々な制約があったとしても、精神的次元において、その自己超越の能力である、この精神の反抗力で必ず存在の意味を輝かせることができるのです。
人間は自己超越的な次元である精神的次元からの「意味への意思」によて、快楽(「快楽への意思」)や権力(「権力への意思」)をコントロールしているのです。
関連記事・・・苦悩することは業績である