ココがポイント
フランクルのロゴセラピーは実存哲学が基礎です。
古典的心理療法とロゴセラピーとの区別
ロゴセラピーという心理療法はフロイトの精神分析やアドラーの個人心理学、ユングの分析心理学のような古典的心理療法とは違った方法を取ります。
フロイトは人間を「性的リビドーによって駆り立てられる存在」として見ており、アドラーは人間を「劣等感にさいなまれる存在」として見ており、ユングは「古代の集合的無意識にとらわれる存在」として見ています。
これに対して、フランクルは人間は「意味への意志によって意味を探求する存在」として人間を描いているのです。
古典的心理療法とロゴセラピーとの違い
古典的心理療法とロゴセラピーとの違いは何でしょうか?
古典的心理療法は人間の「内部意識」に向けて治療を行なっているのに対して、フランクルのロゴセラピーは自分の内部ではなく、人間の「外部にあるロゴスという意味の世界」に意識を向けるように治療が行われるのです。
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人間の五感を考えてみてください。
そもそも人間の五感というものは人間の外部世界との関係を認識するためにあるのです。
このことは、人間は外部環境との関係を密にしながら生きていることを意味します。
すなわち、人間が生きるということは、自分自身のためというよりは、人間の外部にあるもののために生きているというのが、正しい生き方なのです。
人間の意識が自分自身に向けられているうちは、自分が何かの病気にかかっているのであり、病気が重くなるにつれて自分自身の中の病気に向き合うしかなくなってしまうのです。
しかし、ある人間は自分が病気であっても、世界と関わろうと病気と闘いながら、自分の精神の反抗力で、ある誰かや何かのためにならないかと考える聖者もいるのです。
このような聖者がいたという事実は、あの「夜と霧」というフランクルの著作の中にしっかりと描かれています。
(夜と霧 フランクル みすず書房)
このことは、人間は常に、自分自身を超越して生きており、自分が危険に晒されている場合においても、精神の力で自己超越をし、あらゆる状況に対して、態度変容によって対処ができるということを意味しています。
実存分析とロゴセラピー
ロゴセラピーは初めは「実存分析」として提唱されました。
なのでロゴセラピーと実存分析は同義語です。
しかし、アメリカでルードビッヒ・ビンズワンガーの「現存在分析」を「実存分析」と訳されて情報が拡散して現存在分析と実存分析との違いがあやふやになってしまいました。
そこでフランクルは、それ以来実存分析という言葉は使わず、ロゴセラピーとして自分の理論を広めていったのです。
このため、ロゴセラピーの理論が実存哲学に深くかかわっていることをあまり知られずに、間違って単なる論理や意味による治療として世界に公開されてしまっていると考えられるのです。
実存分析と現存在分析
フランクルはとぎのように現存在分析との違いを述べています。
・・・一方、現存在分析は、少なくとも指導的な現存在分析家達自身によって与えられた定義に従えば、その言葉の厳密な意味における(心理)療法ではない。メダート・ボスが、「現存在分析は、心理療法の実践に関係がない」と書いている通りである。ロゴスが、何にもまして意味を示してゆくのである。そこで、ロゴセラピーは意味への方向づけられ、そして、患者を意味へと再方向づける心理療法なのである。
現代人の病 心理療法と実存哲学 丸善p161
現存在分析は治療というより、精神病者のより良き理解に寄与するものです。
それに対して実存分析は人間自身の実存の分析を超えて「存在の意味」を強調し、クライアントに存在の意味を与えるということで、治療的なロゴセラピーとしての役割が与えられるのです。
フランクルは、次のように述べています。
・・・しかし、現存在分析は、存在というふうに解釈されている実存に光を与えるというように協調されている。一方、実存分析は、一方においては「存在」の光を超えているのだが意味に光を与えるというところにまで進んでいる。かくて、存在論的は事実の照明から意味の可能性の照明に強調点が帰られている。このことが、実存分析がおのおのの単なる分析を凌駕してゆき、そして治療法に、即ちロゴセラピーになる理由である。
現代人の病 心理療法と実存哲学 丸善p160
と言っています。
つまり、実存分析は存在についての分析とともに、存在の「意味」というロゴスの世界に焦点を当てて、クライアントに「意味という光」を与え治療としてのロゴセラピーとなるとしているのです。
ロゴセラピーと実存哲学
フランクルのロゴセラピーおよび実存分析は「実存分析」と呼ばれるように、実存哲学と深いかかわりがあります。
実存哲学は決して一様のものではなく、実存主義者と名乗っている者の数ほど実存哲学者がいると言われるほど多く存在しており、そしてそのことを実存哲学は結局は主観主義であると批判される場合もあります。
実存主義は「これは紙である」という場合、これは「ただ単なる紙にすぎない」とする本質主義に対し、この目の前にあるこの一枚の紙を重要視するというのが実存主義の考え方です。
フランクルは人間を、本質主義の考え方である「人間は人間であり、それはただの人間にすぎない」というような考え方に絶対的な対立を表明しています。
実存主義は「これは紙である」という場合、これは「ただ単なる紙にすぎない」とする本質主義に対し、この目の前にあるこの一枚の紙を重要視するというのが実存主義の考え方である。
実存主義においては、人間一人は掛け替えのない唯一無二の存在であり、決して物ではないことを強調します。
フランクルは、実存主義のこの「人間は物ではない」ことを実存主義から学ばなければならないとしています。
・・・しかし人間は物ではない。無よりも、むしろこの、ものではないことこそ、実存主義から学びとるべき教訓である。
と言っています。
ロゴセラピーが実存分析と呼ばれるのは、人間一人一人を「物」ではなく、唯一無二の掛け替えのない実存としてのクライアントである人間に焦点をあてて、セラピストがクライアント自身の存在以外の外部にある「意味」が明らかになるように、クライアントに寄り添った「人生の意味の探求」の手助けとなるようにすることこそが、ロゴセラピーであり実存分析なのです。