ココがポイント
アドラー心理学とロゴセラピー、この二つの学派はフロイトの精神分析とともに、オーストラリアの心理療法ウイーン学派三大潮流と呼ばれています。
二つの心理学派には全体論、主体論、目的論と言った共通点があります。しかし、アドラー心理学には足りないものがあります。
それは「勇気」における「謙虚さ」です。
アドラー心理学とロゴセラピー
アドラー心理学とロゴセラピーには少し共通点があります。
フランクルの実存分析の基本は「自分の人生の意味を求めて生きること」が本来の人間のあり方であるとしています。
この「人生の意味」に関してアドラーも1932年「人生の意味の心理学」と言う著作を刊行しました。
アドラーの著作である「人生の意味の心理学」と言う題名から考えても、フランクルのロゴセラピーと共通であるように見えます。
しかし、内容は少し違ています。
アドラー心理学(個人心理学)
アルフレット・アドラー(1870~1937)は個人心理学と言う学説を唱えました。
今では個人心理学ではなくアドラー心理学として広く知られるようになりました。
アドラーは「これ以上分割できない個人的な存在としての人間の心理学」と言う意味で「個人心理学」を提唱したのです。
アドラー心理学の基本
アドラー心理学の基本は次のような言葉が基本になっています。
対人関係
人間の悩みはすべて対人関係の悩み
全体論
人間はこれ以上分割することができない存在(フランクルと共通)
主体論
人間は、自分自身で自分の人生を決めることができる(フランクルと共通)
認知論
現象学的(フランクルの場合は自己超越的な、客観的で絶対的な意味と価値への志向が人間存在の基本であるので、どちらかと言うと非現象学的)
アドラーの事物の認識は主観的
人間はそれぞれの価値観によって「意味付け」して世界を見ているので同じ状況に対する感じ方は人によってそれぞれ違っている。
目的論
目的や目標に向かって進んでいく(フランクルと共通)
劣等感
自分は他人に比べて劣っているという感情
勇気づけ
勇気づけをして劣等感を克服させるという治療法
共同体感覚
人間は横の関係で、共同体の中で結びついているという感覚を育てることが重要
晩年のアドラー心理学
晩年のアドラーは「人生の意味の心理学」と言う著作にもあるように、人生の意味や人間の超越性を重要視するようになりました。
アドラーは1932年「人生の意味の心理学」と言う著作の中で、人間の人生の意味について次のように述べています。
われわれが、ある人に「人生の意味とは何か」と問うならば、おそらく彼は答えられないであろう。一般に人々は、この問題で頭を悩ましたり、解決を生み出そうとはしない。しかし、この問題が人間の歴史ほど古いものであり、今日でも若者たちが―――そして年取っている者も―――しばしば「だが人生は何のためのものか。人生にはどんな意味があるのだ」という叫びをあげることも本当である。とはいえ、われわれは、彼らがそのように問うのは、ただ彼らが敗北を蒙ったときだけだといいうるであろう。
人生の意味の心理学 アドラー p2
アドラーは、「人生の意味とは何か」を人間が問う場合は、「人間が敗北を蒙ったときだけだ」と言っています。
フランクルのロゴセラピー(実存分析)
フランクルは、人間は意味への意志によって人生の意味を求めて人生に挑戦していくものであるとしています。
しかしフランクルは、アドラーが言うように、「人間が敗北を蒙ったときだけだ」でなくとも、人間が人生の意味を問う場合があるとしています。
フランクルは「人生の意味を問う場合」についてある調査の結果を掲載しています。
ここに、ハーバード大学社会関係学部のロルフ・フォン・エッカーツバーグが、二〇年以上もの長きにわたって実施した追跡調査がある。その調査では1〇〇名のハーバード大学卒業生が取り上げられているのであるが、私がロルフ・フォン・エッカーツバーグから個人的に受けた報告には次のように期されている。「そのうちの二十五%の人が、生きる意味への問いに関する人生の〈危機〉をまったく自発的に報告している。その中には職業的に非常に成功している者も含まれており(彼らの過半数は実業界で活動している)、収入も申し分のないものであった。しかし、それにもかかわらず、彼らは、特別な人生の使命、すなわち、自分独自の、代替え不可能な貢献をすることができるような活動が欠けていると訴えているのである。彼らは、〈転職〉を、つまり個人的・人格的な支えとなる価値を求めているのである。」
実存的精神療法 人間とは何か フランクル p36
この記述によると、ある程度自己実現している人々も「人生の意味とは何か」に悩んでいることがわかります。
フランクルは、「人生の意味とは何か」と言った、自分の人生の意味を疑ったり、人生の意味を見いだすことに絶望したりすることを「実存的欲求不満」に陥っていると言い現わしています。
このように、人間が「人生の意味を問う場合」と言うのはアドラーの言うように「人間が敗北を蒙ったとき」だけではないことがわかります。
人間は人生に対する「意味や価値」を求めて努力する存在なのです。
アドラー心理学に足りないもの
アドラー心理学には少し足りないものがあります。
フランクルは次のように述べています。
・・・それ以外の点でも、精神分析と個人心理学は互いに対立しています。何しろ精神分析は人間の現存在のうちに主として性的衝動性を見ているのに対して、個人心理学は主として社会的拘束性(「共同体感情」)をみているのですから。そしてこれら二つの立場では次のことが見過ごされています。つまり、性的衝動性と社会的拘束性と言う二つの契機はいずれも、本来、より根源的で、より全体的な人間的現象である愛と言う現象の欠如態であるということです。
意味への意志 春秋社 p181
フランクルは精神分析と個人心理学においては「愛」の概念が欠如していることを指摘しています。
アドラーは「愛」の概念についてはあまり深く考察してはいません。
アドラーにおいて「愛」とは結婚生活における共同体感情であり、結婚と言う共同体社会の中での、内面的な社会的感情でしかありません。
また、フランクルはこの「愛」の欠如から、心理療法の本質がそれぞれ違ってくることを指摘しています。
・・・したがって、精神分析とは反対に、私が構想しようとしてきた実存分析の観点においては、人格は欲動によって決定されているのではなく、意味によって方向づけられている。精神分析の見方とは対照的に、実存分析の見方では、人格は快楽を求めるものではなく、価値を求めるものである。人間は性的情動(リビドー)に駆りたてられていると精神分析の考え方や、人間は社会的拘束性(共同体感情)に縛られているとする個人心理学の考え方には、いずれも、ある一つの根源的現象が欠落しているように思われる。すなわち、それは愛である。愛は、どんな場合でも、一人の我と一人の汝との関係である。しかし、この関係のうち、精神分析の見方において残されているものは、単なるエス――性愛――である。一方、個人心理学の見方において残されるものは、一般的な社会性である――私はそれを「ひと」(ダス・マン)と呼びたい。
人間とは何か V・E・フランクル 春秋社p443
と精神分析や、個人心理学の愛の欠如について述べています。
(ダス・マンとは、マルティン・ハイデッカーの概念であり、非人間的な、だれでもないただの人、と言う意味です。)
実存分析(ロゴセラピー)は人間の意味発見のための相互援助にも目を向ける
上記の表はフランクの書籍から、それぞれの心理療法の本質の違いを表にまとめたものです
フランクルは、上記の表におけるように、それぞれの心理療法の本質の違いを明らかにしています。
フランクルの実存分析は、人間の生きることに対する意味や価値の発見を援助することを目的に心理療法を実施しています。
フランクルは、人間が意味や価値を発見するためには「愛」による「認識作用の概念」が重要であるとしています。
このことは、量子力学とスピリチュアルと愛と言う、他のブログ投稿記事で詳しく説明しています。
関連記事・・・量子力学とスピリチュアルと愛
人生の意味や価値を発見するためには、客観的に精神的な「ロゴス」への信頼と主観的精神的な努力である「愛」が絶対的に必要なのです。
人間は主観的精神的努力である「愛による認識作用」によって「客観的精神的なロゴスの世界」から、人生の意味や価値を探求し発見するのです。
フランクルの精神療法は、この人間の人格の中にある、主観的精神的努力である「愛」を信頼して、患者に対して今現在の「憂鬱な態度」を変容することを患者と真摯に向き合いあい、本当の意味での、その人の人生の意味を発見し、患者の精神的人格からの態度変容を援助することを目的とするのです。
精神分析と個人心理学は、人間の内面心理からの「心理療法」ですが、フランクルの場合は、人間の最も人間的な自己超越した精神的人格からの療法(人格的態度療法)なので、「精神療法」と呼んでいます。
個人心理学には謙虚さが必要
フランクルは、アドラーの個人心理学は、謙虚さが足りないことを指摘しています。
「謙虚さ」は内的な強さの表れ
フランクルは次のように述べています。
個人心理学は勇気を説く。しかし、それは、謙虚さというものを忘れているように思われる。その謙虚さとは、世界における精神的創造物に呈する謙虚さであり、それ自身が独自の世界を持っている精神的なものに対する謙虚さである。こうしたものの本質や価値は、心理学主義的な仕方で心理学的地平に投影することは決してできないのである。謙虚さとは、もしそれが真実のものであるならば、少なくとも勇気と同じくらい、内的な強さの表れなのである。
人間とは何か V・E・フランクル 春秋社p63
フランクルは、アドラーの個人心理学は、結局は患者の身体的側面や、心理的側面からしか患者を診ていないので、ただ「勇気」を煽り共同体感覚を得られるように妥協策を患者に与えます。
しかし、問題は、患者の精神的人格が一体何を求めているのかを相手の立場に立って、しっかりと積極的に傾聴し(カール・ロジャーズ)意味と価値の世界(ロゴス))を見据えることができるように理解的援助関係をもって治療にあたることを強調しているのです。
個人心理学に愛の概念を追加
フランクルは、アドラーは勇気を説きますが、謙虚さが必要であると説いています。
アドラーの理論には、愛の概念を追加する必要があるのです。
アドラーは人間は、劣等感を除去するため、評価されることと優越を求める努力は、子供のころから人生の目標を達成しようとする心の努力として存在することが認められると述べています。
これらの努力は、人間の「権力への意志」を表しています。
アドラーは「権力への意志」を次のように述べています。
劣等感、不安定感、不完全感というものは、人生において目標を設定することを強要し、目標を形成するように助けます。幼少期に始めの頃にすでに、注目を浴びよう、両親の注意を自分に向けさそう、そのように仕向けようとするこころの動きが起こります。それは、人に認められようとする努力の最初の兆候であり、劣等感の作用によって発達し、自分が優れていると周りに見えるような目標を設定させます。
人間知の心理学 I A.アドラー p76
と子供のころから人間には「権力への意志」があることを指摘しています。
しかし、フランクルは、アドラーの個人心理学には、「愛」の概念がないことを指摘しています。
愛の概念を取り入れて謙虚さを取りもどす
フランクルのいう愛と力の関係を要約すると次のようになります。
フランクルの言う「力」と「愛」の関係を見ると、「力」とは自分自身に対する内面的欲求(権力への意志)が見られ、「愛」には「意味や価値」についての「人間の自己超越性(意味への意志)」が含まれていることがわかります。
フランクルは、アドラーの「権力への意志」には謙虚さが足りないことも指摘しています。
フランクルは、ジョン・ラスキンの命題を提示して次のように、謙虚さを付け加えています。
「ただ一つの力しかない。それは救う力である。そして、ただの一つの名誉しかない。それは助ける名誉である。」
この言葉は、力の概念に、愛の概念を取り入れ、謙虚さを取りもどした言葉なのです。
愛の中にはには謙虚さと言うものが含まれています。
謙虚さと言うものはフランクルも言っているように、人間の精神的、内的な強さなのです。
力の概念に愛による謙虚さを取り入れることによって「快楽への意志」と「アドラーの権力」を調整し人間の基本的な意味への意志を深めることができるのです。
謙虚さにはフロイトの「快楽への意志」とアドラーの「権力の意志」を調整し「意味への意志」を深める役割があるのです。
意味への意志による自己超越へ
意味への意志を深めると言う事は人間を自己超越に導くことに繋がります。。
関連記事・・・自己超越としての「意味への意志」
フランクルはアドラーの個人心理学は人間は目標に向かっている存在としていますが、次のように述べて、アドラーの目標は内心的なものであるとしています。
フロイトの精神分析と違って、アドラーの個人心理学では人間を衝動に駆り立てられている存在としてではなく、目標に向かっている存在として理解しています。しかしアドラーの言う目標と言うのは、注意深く吟味すれば、実際は人間の自己や心理を超えるものではないことがわかります。その目標は、あくまで内心的なものなのです。アドラーにおいて人間の努力というのは、最終的には、自分の劣等感や自信のなさと折り合いをつけるための単なる手段とみなされているのです。
「声にならない意味への叫び―――心理療法とヒューマニズム―――1978」V・E・フランクル 邦訳なし
(上記は、フランクル心理学入門 諸富祥彦著作 コスモライブラリー p35 の引用です。)
そして、フランクルは、人間は自己超越が本質だとして次のように述べているのです。
・・・しかし、実存は本質的に自己超越にある。したがってそれは自己実現にあるのではない。即ち、人間本来の重要性は、自分自身の実現にあるのではなく、価値の実現や意味の可能性の充足にあり、その意見の可能性は、自分自身の中とか、自分の内に閉ざされたものとしての心理の中に、と言うよりも世界内に見出されるべきものなのである。
フランクル 現代人の病 丸善 p84
人間は、フロイトの快楽への意志やアドラーの権力への意志には「愛」にる「謙虚さ」を取り入れて意味への意志を充実させなければならないことを指摘しているのです。
アドラーの共同体感覚の拡張性
アドラーの共同体感覚とは、人間は横の関係で、共同体の中で結びついているという感覚でした。
アドラーは次のように述べています。
・・・共同体感覚は一生涯続きますが、ニュアンスが加わったり、制限されたり拡張されたりするし、うまくいけば家族員だけでなく一族や民族や人類全体にまで広がりさえします。さらに、そのような限界を超えて、動植物や無生物にまで、ついには宇宙の果てまで広がることさえあります。
人間知の心理学 I A.アドラー p47
フランクルは、神については語っていますが、宇宙までは考察していません。
アドラー心理学にフランクルの言う「愛の概念」「人間の自己超越性」を取り入れたのならもっと素晴らしい心理学ができるのではないでしょうか。