ココがポイント
精神は対外離脱をした幽体と同じであり、やがてアカシックレコードに吸収されていくのでしょう。
臨死体験
臨死体験とは、意識がなくなり死に限りなく近づいた人間が、奇跡的にまた意識を取戻すと言う体験をすることです。
この臨死体験は芸能界では、ビートたけし(自動車事故)、大仁田厚(病気)、田中美佐子(病気)、森高千里(病気)、加山雄三(病気)など有名な芸能人が体験し、世界を見てみても様々な国の方々がこの臨死体験と言うものを体験しているのです。
しかし、これらの臨死体験が本当のことかどうかを証明することができない以上、この臨死体験を、信じるか、信じないかは、あなた次第だと言う事です。
臨死体験の共通点
臨死体験には様々な共通点がありこれらの共通点は、すべての人が見たと言う訳ではありません。
あるいは、単に忘れているだけなのかもわかりません。
対外離脱
一番多い体験は対外離脱と言う現象です。
対外離脱とは自分自身の体から離れて、高い所から自分自身を見ていると言う体験です。
自分の人生の振り返り
自分の人生を走馬灯のように振り替えると言う体験です。
知人の遭遇
自分の知人に出会う体験です。
この場合、本当に生前に知っている人ではなく、自分が知らない親戚や、血族の場合もあるようです。
花畑
花畑見る事です。
三途の川
川を見る事です。
光の存在
暗いを通り、光の存在を見る事です。
木内鶴彦氏の臨死体験
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ここからの内容は、「臨死体験」が教えてくれた宇宙の仕組み(晋遊舎出版、木内鶴彦著)からのものです。
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木内鶴彦氏は人生においいて三度の臨死体験経験した人です。
人間は一回の人生ので、何回も臨死体験をすると言う事はまずありえません。しかし、木内鶴彦氏は三度の臨死体験をしています。
三回も臨死体験をすると、自分は高次の存在から加護を与えられたような気持になることも理解できるところです。
そのため、自分の都合の良いように解釈すると言う事もあると思われます。
しかし、これらの体験は、人間に必ず訪れる「死」と言うものをただ恐れ戦いて生きるよりも、もっと「死」に対して前向きになれるという可能性がある事柄なのです。
木内氏の一回目の臨死体験
木内氏が第一回の臨死体験をしたのは、木内氏が22歳の時、上腸間膜動脈性十二指腸閉塞を発症した時の体験です。
この体験の時に木内氏は、他の臨死体験者が体験した部分をほとんど体験しています。
木内氏によると臨死体験には第一次臨死体験と第二次臨死体験に分けられると言います。
木内氏によると第一次臨死体験は「ぼんやりとした夢の中のような出来事だった」と言っています。
一方第二次臨死体験は、「まるで現実そのものだった」と言っています。
第一次臨死体験
木内氏の第一次臨死体験は要約すると下記のような体験でした。
臨死体験の第一段階は様々臨死体験者がぼんやりとしたものであったようです。
- 真っ暗な洞窟のようなトンネルの中にいて、遠くに見える光源を目指して歩いた(暗い洞窟を光を目指すと言う体験は多くの臨死体験者が言っています。)
- 非常に大きな川に突き当たる(三途の川)(光源は川の対岸にあり、ぼうっと全体照らしています。)(「三途の川」と言う言葉は誰でも一度は聞いたことはあるでしょう。)
- 船に乗って腕で船を漕いで向こう岸に到着した
- 離れたところに焚火のような明かりが見えた
- かげろうのような人のシルエットが4,5人見えた
- 喪服を着た中年の女性に会う(自分が生まれて間もなく、若くして亡くなった伯母だった。)また二十代でなくなった従兄弟とも会う。(知人に会うと言う体験は様々な臨死体験者が言っています。)
- 草原のような丘を登る
- 頂上に到達すると向こう側は一面の花畑があった(「花畑」も多くの臨死体験者が言っています。)
- 天には金色の大きな光があった
- 天上から光の存在が降りてきた(光の存在は東洋では観音様、西洋ではキリスト様と言ったところでしょうか。)
- ベッドで目が覚める
- 心臓が止まり対外離脱をする(ここで臨死体験の第二段階に入ります。)
対外離脱(第二次臨死体験)
対外離脱は木内氏の言う第二次臨死体験です。
対外離脱は臨死体験の大半の人が体験しています。
木内氏によると対外離脱は「まるで現実そのものだった」と言っていますが、多くの臨死体験者はまるで現実のように鮮明に覚えているのです。
ある体験者は自分の体の手術の内容を高い所から見た状況を鮮明に自分の担当医に話し、担当医が驚いたと言うエピソードもあるくらいです。(NHKの臨死体験番組の中で放送された、アル・サリバンの体験談)
木内氏の対外離脱
木内氏の対外離脱は他の体験者のそれとは一線を画しています。
木内氏は対外離脱した後、対外離脱した自分を利用し、過去、現在、未来へと移動したのです。
過去では、木内氏が幼い時に、誰かが「危ない」と言って自分が姉を助けたことを思い出し、誰が「危ない」と言ったのかを探ろうとしました。そして過去に瞬時に戻り現場で「危ない」と言ったのは今の対外離脱した自分だったことに気づいたのです。
未来では、中年になった自分が広い畳の部屋で星について会議で語っていた光景を見に行ってきました。後で実際に高野山の清浄心院と言う修行寺で臨死体験で見た場所と一致していたと言っています。
木内氏の二回目の臨死体験
55歳の時、中国での皆既日食観測を終えて、ホテルに戻った後で冠静脈破裂で吐血し、臨死状態になりました。
しかし、電気ショックで息を吹き返しました。
木内氏の三回目の臨死体験
冠静脈破裂の手術の直前に、また大量の吐血と下血により臨死状態になっりました。
臨死体験と精神との関係
多くの臨死体験者が語っているように、現実に自分自身を別の場所から観察していたと言っているのです。
さて、このブログはフランクルの思想を反映考察していますが、フランクルは人間は、身体、心、、精神の三位一体で成り立っていっるとして、独自の次元的存在論を展開しています。
関連記事・・・フランクルの次元的存在論
フランクルの次元的存在論は、身体、心、精神はバラバラではなく多様の統一体であると言っています。
人間が生きている間は、身体、心、精神は一体となっているようです。
フランクルは、身体と心とは因果律で規定されているけれど、ただ精神だけは因果律に支配されないで自由であるといっています。
人間の精神は体と心とは融通無碍で独立した人間の現象です。
フランクルの言う精神は自由であり人間がどのような状況の中でも決して束縛されないとしています
臨死体験中の対外離脱と精神との関係
臨死体験者の中の多数の人は対外離脱をして、違う場所から自分自身を見たと言う体験をしています。
対外離脱は「現実そのものだった」と多くの臨死体験者が述べています。
問題は精神と対外離脱した物体は同一のものではないのか、ということです。
スピリチュアル的な考え方からすれば。対外離脱とは人間の幽体離脱という概念となります。
スピリチュアル的に見れば、対外離脱とは、幽体離脱であり、幽体とは、人間の精神であるということになります。
今の科学技術では精神と幽体が同じであるということは証明することはできません。
しかし、多くの臨死体験者の証言を見る限り、精神と幽体は何らかの相関関係にあるように思われます。
精神の自由
フランクルも述べているように、精神は自由です。
これは誰にでも経験があると思われますが、思い出し笑いをするとか、昔の出来事の鮮明な回想や、昔の辛かった悲しい経験や、感動した経験等、今現在その場においても、現実のことのように頭の中で回想することができると思います。
このことは自分の精神が自由であり、いつでも自分が過去の出来事を思うことによって、その時に経験した状況を思い出し、その時間の場面に行くことができるのです。
このことは人間の精神が時間と空間を超越しているからこそできることなのです。
臨死体験者も語っているように、臨死体験の時に過去を走馬灯のように思い出したと言います。
木内氏も臨死体験では、過去、現在、未来へと自由に行き来することが出来たと言っています。
このように人間の精神は自由なものなのです。
精神の自己超越性
フランクルは精神の自己超越性を強調しています。
フランクルは人間は自分自身のことを客観的常に見ることが出来ると言っています。
一番わかりやすい場面は、自分自身のことを笑う場合です。
例えば、今となっては笑い話で、過去の愚かな自分の行動を思い出し、自分はいったい、なんであんなことをしたのかと自分自身のことを考えて笑っている、といった場面です。このことは自分自身を客観的に超越して、自分自身を反省しているからできる人間の能力(フランクルの言いう自己超越の能力)なのです。
関連記事・・・ユーモアは自己超越の能力です
精神と松果体
人間の精神は生きている時は体と心と精神という三つが統一体(フランクルの次元的存在論)となっていますが、自分自身の入れ物である肉体が機能しなくなると、霊体となって自分自身の体から離れ幽体離脱するのではないかと考えることが出来ます。このことは誰も証明できないので推測にすぎませんが、そう考えるほうが最も納得する考え方なのではないのでしょうか。
この人間の精神(霊体)は一体どこにあるのでしょうか。
私は、人間の脳の中の松果体がその正体ではないのかと推測します。
このことは今の科学技術では証明はできませんが、量子コンピュータの登場で将来的に解明できる時が来るのかもしれません。
人間は霊体になると、木内氏の言っているようにもっと自由になることができるのかもしれません。
精神が幽体であるなら
人間の精神がもし幽体と同じものであるとするなら、人間は死をそんなに恐れる必要はないのではないでしょうか。
人間は長い間「死」というものを怖くて恐ろしいものであるとしてきました。
臨死体験がもし本当であるなら死というものに、前向きになれるのではないのでしょうか。
しかし、死を恐れないと言っても、現実の世界から逃れるために安易に臨死体験を利用してはなりません。
重要なことは「死」を正しく恐れるということです。
正しく恐れるとということは、自分の生きる使命を持ち、何かのため、あるいは誰かのため、ある大義名分のため、究極的には神のため「死」という最後に向かって一生懸命努力しいて生きることが最も重要なのことなのです。
アカシックレコード
アカシックレコードというスピリチュアル系の用語があります。
アカシックレコードとは、いわば宇宙のインターネットで宇宙や地球や人類すべて歴史や未来の出来事の情報が集まっているデーターバンクといったところでしょうか。
スピリチュアルの世界ではこのアカシックレコードにアクセスできれば何でもできてしまうかのように、スピリチュアルビジネスとして利用されているようです。
関連記事・・・アカシックレコードについて
木内氏はこのアカシックレコードを「膨大な意識体」と言っています。
木内氏は人は死んで対外離脱をして霊体になり最終的には膨大な意識体であるアカシックレコードに吸収されるのではないかと言っています。
アカシックレコード論では無である神様が退屈なので、様々な経験をするために人間に体験させているというのです。
スピリチュアル論ではアカシックレコードは現実世界を容易に生きるため、アカシックレコードにアクセスする方法を論じて、宗教のようにヒーリングや独自の瞑想法を提示しビジネスに応用しているのです
私の意見としてはアカシックレコードをビジネスの糧にすることはナンセンスであると考えます。
アカシックレコードに自分の努力を刻もう
人間がこの世に生まれて来た理由はフランクルの言うように、「自分の人生から何を得られるか」という受動的に考えて生きているのではなく、「自分の人生に対して何ができるのか」という能動的に生きていくべきであると考えます。
「随所に主と作る」生き方をしましょう。
関連記事・・・「随所に主と作る」とはフランクルの人生哲学です
「自分の人生に対して何ができるのか」という能動的に生きていくことは、自分の精神の向上に非常に役に立ちます。
つまり、このブログで幾度となく言っているように、人間の精神的次元の上昇を果たしていくことに寄与するのです。それが人間個人の使命なのです。
個人の精神的次元の上昇は、毎日の生活の中で自分の精神をもっと上昇させようと、個人個人が努力することによって自分の糧となて精神の成長が促されるのです。
私たちは、人生の最後に自分は精神的次元の上昇に努力を注いできて、大往生であると思えるように生きなければならないのです。
あなたの人生は、あなただけのものであり、誰も真似をすることはできない貴重な経験なのです。
フランクルはどのような人生にも意味があるとっしています。
自分なりに人生を精一杯努力して、自分なりの最高の人生経験をアカシックレコードに刻みたいと思いませんか。
私たちの人生に怖いものは何もありません。
「神」以外には・・