ココがポイント
人間の善悪問題は、遺伝と環境によって左右されるのでしょうか?
人間の善悪問題は、遺伝と環境の他に第三の要因があります。
それは、人間の決断です。
犯罪性は遺伝するのか?
「犯罪性は遺伝するのか?」という統計実験が行われました。
それは、一卵性双生児による双子実験でした、そして興味深いことが分かりました。
関連記事・・・遺伝する犯罪性 〜双子実験〜 前編 | 紫洲書院 (shidzu-shoin.com)
双子の実験結果
その実験の結果は、見事な五分五分の状態、つまり生まれ持った犯罪性が50%、環境によるものが50%であるということが分かりました。
犯罪をめぐる「生まれか、育ちか」論争は今のところ50%ずつなのです。
遺伝と環境と第三の要素である「人間の決断」
しかし、フランクルは遺伝と環境の他に、もう一つの要素が抜けているというのです。
つまり素因と環境、遺伝と環境の他に、第三のもの、人間の決断というものがあり、これこそ人間にあらゆる束縛を乗り越えさせるものだということです。
時代精神の病理学 フランクル著作集 第三巻 p205
犯罪者になるという重要な条件がもうひとつ残されており、それは人間が悪魔になるか天使になるかの人間の「決断」が重要な要素であるとしています。
この、人間の「決断」という第三要素が、人間の遺伝と環境の背後に大きな影響を及ぼしているのです。
人間は「決断する存在である」とヤスパースは言っています。
フランクルは、遺伝学者ランゲ教授の一卵性双生児の研究で発表された、双生児兄弟の例を挙げています。
兄弟の一人は、前代未聞の巧妙な犯罪者になり、もう一人の兄弟は、人並外れた老獪、老練な刑法学者になったという研究結果です。
そして、フランクルは、この事実を取り上げ、
この二人の、一卵性双生児の決定的違いは、片方は前代未聞の巧妙な犯罪者になる決断をし、片方は、人並外れた老獪、老練な刑法学者になる決断をしたということです。
片方は前代未聞の巧妙な犯罪者になる決断を常にしてきて犯罪者になり、もう片方は、犯罪者を取り締まる人並外れた老獪、老練な刑法学者となったのでです。
人間は「悪魔」にでも「天使」にでも、その人間の「決断」によて、いつでも、どこでも、どちらにでも、なれる存在であることをこのブログの中で考察しました。
関連記事・・・フランクルが強制収容所で体験し、知り得た「人間とは何か?」
そして、それは人間の「今ここでの」その時、その時の「決断」に掛かっていることも述べました。
人間の善悪は人間の精神的な決断によるものなのです。
人間は、絶えず自分の良心と対話し、善か悪かどちらかに成るのかを絶えず問いかけ自分の信じた、正しい責任ある決断をすることによって、この変えることの難しい要因である「遺伝」と「環境」と戦い、精神の反抗力で精神的次元の上昇を果たさなければならないのです。
人間はいつも天使になれるように常に自分の良心に問いかけて、決断していくことが重要です。
遺伝と環境によって善悪を考えることは運命論や決定論に帰結する
人間は遺伝と環境の産物ではありません。
人間が遺伝と環境の産物だとする考え方には、運命論や決定論に帰結することになってしまうのです。
確かに、遺伝による素質は変えることはできません。
環境に関してもほんの僅かしか、それもすぐには変えられません。
しかし、ここにフランクルの言う、精神の反抗力(精神的拮抗作用、精神の抵抗力、精神の反発力)と言われる人間特有の力があることを考慮しなければなりません。
われわれ人間は、遺伝と環境に真っ向から精神の反抗力によって対峙することが出来ます。
できないと言っているの人は、運命論者であり決定論者なのです。
関連記事・・・体と心と精神について
人間は限界状況の中では、現実逃避を行います、大体「・・・に過ぎない」と言っているニヒリズム的な論調を行っている人間は現実逃避的であり、弱音を吐いているようなものなのです。
アセンション(次元上昇)とか多次元世界論を論じている方々は、精神的次元が高い人には次元上昇の価値があるかもしれないが、精神性の低い人次元の人々にとっては逆に精神的怠惰の状況が起こってしまうということを肝に銘じておかなければならない。
なぜなら、精神性が低い人間は現実逃避願望が大きく、楽な生き方の方に考え方が傾いてしまう恐れがあります。
また個人個人が、何かのために、あるいは誰かのために、あるいは何物かのために、さらに、究極的には神のために、ではなく、自分自身のために、アセンションするということに努力が、志向されてしまい、精神的な怠惰や精神の倦怠が起こってきてしまうのです。
人間は何かのために、あるいは誰かのために、あるいは何物かのために、さらに、究極的には神のために努力して生きていくことが精神的次元の上昇の道なのに、自分自身だけを満足させるために生きていくことになってしまうのです。
このことが、現代のアセンション論や多次元世界論、超現実世界論が何か素晴らしい天国のような世界に行くことが出来、がより幸福感が得られるだろうという、甘い考え方になってしまい、個人の精神的次元の上昇の道が遮られてしまう恐れがあるのです。
神経症的な人間は、「意志が弱い」と弱音を吐いてしまう
フランクルは
・・・今日の人間は進んで自分の精神性を(精神分析の表現をかりると)抑圧しているのではないでしょうか?今日の人間が精神的な倦怠に傾いている、あるいはこう言いたければ、精神が疲れていることはたやすく例証できます。彼らには自分の精神や自由ぐらい煩わしいものはないのです。
時代精神の病理学 フランクル著作集 第三巻 P156
と言って、今の人間は精神的に疲れているのだと言っています。
まずは、精神的次元の上昇を、個人個人の間で図らなければなりません。
今の人間は、特に神経症的な人間は、
「自分は意思が弱いのです。」
と言ってくる患者が多く、次のように指摘しています。
・・・ところで、弱い意志とか強い意志というものが実際にあるのでしょうか?あるいは、そうしたものを云々することからしてむしろその印ではないでしょうか?「意志があれば道もある」とはよく言います。しかし私はこの格言を変えて、目標があれば意志もあると主張したい。言い換えると、目標をはっきり目にとめそしてこの目標に到達することを誠実に心掛けているような人は、自分には意志の力がないなどと決して弱音を吐いたりしないものです。
時代精神の病理学 フランクル著作集 第三巻P154
人生の目標を決めて生きていくことが人間に求められている事柄なのです。
遺伝と環境に真っ向から対峙する「精神の反抗力」
人間は、生きる「目的や理由や希望」というものがあれば、ニーチェが言っているように、「ほとんどどんな事態にも耐えられる」のです。
これはフランクルが、実際に強制収容所の中で見てきた事実なのです。
強制収容所のような環境や遺伝に打ち勝ち、耐えられる、人間の真の力である精神の反抗力(精神的拮抗作用、精神の抵抗力、精神の反発力)を今こそ発揮していかなければならないのです。
この能力は、誰でも「今ここで」、実存的に力を発揮することが出来るのです。
「出来ない」と言っている人は、まさに精神が病んでおり、精神の倦怠が起きており、精神性が低い次元に留まっているのだと言えるのです。