ココがポイント
「意味への意志」とは最も人間的な意志であり、人間が生きている意味を求める意志なのです。
このことが人間が単なるロボットやコンピューターではない証なのです。
意味への意志
imihenoisiとアルファベットでパソコン入力すると「意味への意志」となります。
そうです、このブログのサイトアドレスとなります。
それだけ「意味への意志」は重要な言葉だと言う事を示したかったのです。
さて、この「意味への意志」とは一体何でしょうか?
この「意味への意志」こそが、あるニヒリスティックな科学者達や哲学者達が言っている「人間はロボットである」ということを否定し論破するための人間の意志なのです。
まず、ロゴセラピーの創始者であるフランクルが意味への意志についてのわかりやすい文章を見てみましょう。
なぜ私は、私の理論の名称として「ロゴ・セラピー」という言葉を採用したかということについて説明したいと思います。ロゴス(Logos)とはギリシャ語で「意味」(meaning)を表しています。ロゴセラピー・・・ある人はこれを「精神療法のウイーン第三学派」とも読んでいます・・・は、そのような意味を求める人間に焦点を当てるだけではなく、人間存在そのものの意味にも焦点を当ています。ロゴセラピーによれば、自分の人生に意味を見出そうとする努力は、人間の内なる根源的な動力なのです。これが、なぜ私が意味への意志と呼ぶかの理由です。この意味への意志は、フロイトの精神分析が中心に置いている快楽原則(あるいはこれを快楽への意志と呼ぶこともできるでしょう)や、アドラーの心理学によって強調された力への意志と対照をなしています。
意味による癒し V・E・フランクル 春秋社 p5
「意味への意志」とはフランクルが名付けたものです。
「意味への意志」はフランクルがフロイトの「快楽への意志」とアドラーの「権力への意志」に対して生まれた言葉なのです。
人間が今ここで生きている世界で生活し、その人生の意味を求めるという人間の基本的な意志が「意味への意志」なのです。
フランクルは生前フロイトやアドラーの弟子として仕えていました。
フロイトの「快楽への意志」
精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは人間を無意識のリビドーによって駆り立てられる存在であり、人間は自分の快楽を満足するために生きていると唱えました。
人間が快楽を追求する意志が「快楽への意志」なのです。
「快楽への意志」とはフランクルが名付けた言葉です。
アドラーの「権力への意志」
個人心理学の創始者であるアルフレート・アドラーは、人間は共同体の中で自分の「劣等感(アドラーが作った言葉)」を埋める合わせするのに、権力欲を追求し、そのために生きていると唱えました。
この権力を追求する意志が「権力への意志」なのです。
「権力への意志(力への意志)」とはフリードリヒ・ニーチェの言葉です。
フランクルの「意味への意志」
ロゴセラピー(実存分析)の創始者であるビクトル・フランクルは、人間は自分の「人生の意味」、「生きる意味」を発見するために生きていると唱えたのです。
この人間の意味を求める意志が「意味への意志」なのです。
- 自分はいったい何のために生きているのか?
- 自分はいったい誰のために生きているのか?
- 自分の人生とはいったい何なのか?
- 自分とは一体何なのか?
と言った人間に特有な感情が「意味への意志」なのです。
フランクルは快楽欲や権力欲の欲求不満と同じように意味への意志の欲求不満もあるとしています。
昔は伝統というものがあり人間が毎日何をするのかというこは古代からの教えがありそれに従って生きていけば生活が成り立っていました。
しかし、今の時代は伝統は崩壊し、科学技術によって神をも恐れないような原子爆弾なるものをも開発してしまっています。
人間は科学技術によって生活は向上し平和になりましたが、今度は自分はいったい何者なのか、という自我同一性(アイデンティティー)の拡散が起こり始めたのです。(アイデンティティーはエリクソンの言葉です)
自我同一性(アイデンティティー)は自分の存在の意味が明確にわかっている状態を表しますが、それが不明確となり崩壊し始めたのです。
このことが人々を、フランクルの言う存在の「意味への意志の欲求不満」に陥らせ、様々な社会問題となっているのです。
今現在、この豊かな世の中に、人生に意味を見出せないでいる人間、自分はいったいなぜ生きているのか、何のために生きているのか、と言ったような人生の意味を求めている人間の数のなんと多いことでしょうか。
人間はフランクルの言う「意味への意志」によって自分の人生の意味を発見しなければならないのです。
「快楽への意志」及び「権力への意志」と「意味への意志」の違い
フロイトの「快楽への意志」とアドラーの「権力への意志」は自分自身のための意志ですが、フランクルの「意味への意志」は違います。
「意味への意志」は、人間は「自分が何のため」とか、「なぜ生きているのか」という欲求であり意志なのですが、この意志は自分自身のため、というより、自分以外の何かのための、自分の生きる意味、を強く求める欲求なのです。
つまり自分自身以外のもの、自分自身を超えた何かを求める意志なのです。
これは自分自身への欲求ではなく、自己を超越したものを求める欲求なのです。
このことは、人間は決して自分自身のために生きるのではなく、自分自身以外のもののために生きるというのが真の人間の姿なので
す。
人間は生きるためには、ある程度の食欲や性欲は必要です。
また生きるための、財力等の権力は必要です。
しかし、最も重要なことは自分は何のために生きるのかという、自分自身を超越した目的(意味)に向かって努力をする意志、すなわち「意味への意志」が生きるためには必要なのです。
人間は、自分の「快楽への意志」と「権力への意志」をうまく調整しながら、「意味への意志」による意味の探求をしていかなければならないのです。
このことが人間の本来の生き方なのです。
意味は客観的なもの
・・・意味とは客観的なものなのです。このことは、単なる私自身の個人的な世界観の表現なのではなく、実験心理学的研究の結果でもあります。なにしろ、ゲシュタルト心理学の創始者の一人であるマックス・ウェルトハイマーもはっきりと次のように指摘しているのですから。すなわち、あらゆる個々の状況には要請的性格が内在し、その状況に直面している人格が充たされなければならない意味が内在している。そして、この「状況の要求」は「客観的な性質のもの」と見なされるべきである、と。この意味では、私が意味への意志と名ずけているものも、一つのゲシュタルト把捉に見えるかもしれもせん。
ジェームズ・C・クラムボウやレオナルド・T・マホリックは、意味への意志を、現実的なものの中だけではなく可能的なものの中にも意味ゲシュタルトを発見する人間の本来的な能力と見なしています。
意味への意志 V・E・フランクル 春秋社 p26
と言っており、意味は客観的な形態(ゲシュタルト)を持っているのです。その客観的な意味を見つける意志が「意味への意志」なのです。
「良心」は意味を知覚する人間の、もう一つの感覚器官
人間は意味を探し求めますが、真の意味を知覚できなければなりません。
人間は客観的な意味を発見しなければなりません。
人間はどのようにして客観的意味を発見するのでしょうか?
フランクルは、
意味を探し求める際に、人間を導くのが良心です。一言でいえば、良心は意味器官なのです。良心とは、意味ゲシュタルト(形態)を人生の様々な具体的状況において知覚する能力であると定義できるでしょう。
意味への意志 V・E・フランクル 春秋社 p27
と言って、「良心」は人間が意味を発見するための感覚器官であると言っています。
つまり良心が意味を発見することができる人間の感覚器官なのです。
しかし、誰の良心も過ちを犯すものです。
他人の良心も過ちを犯すということをわかったうえで、他人も尊重しなければならないということです。
人間の良心は結局自分自身の「神」と繋がっています。
伝統が重んじられなくなった現代では、ますます人間は自分自身の良心と対話し、今ここで自分はいったい何が最善の行為なのかを見極めなけらばならないのです。
そのために精神的次元の上昇を図っていかなければならないのです。
私たちは、「赤」を求める場合は「絶対的な赤」に到達するように努力しなければなりません。
つまり、絶対的な赤は神のみが表現できるものですが、人間には絶対的な赤は作れません。
しかし、「神の赤」になるように人間は努力をして「赤」を作らなければならないのです
人間は神には絶対になれないけれども、もし神であったならばどのような事柄が最善策なのかを絶えず問い続けていかなければならないのです。
「神の存在に近くなるように努力すること」
これが有限な人間に与えられた使命なのです。
存在(現実)と当為(神の世界)の間の溝絶対に埋めることはできません。
しかし人間は神に近くなる努力をしなけらばならないのです。
人間はできるだけよい良心を持つように日々努力をし、その良心で人間の存在の意味を発見しなければならないのです。
人間存在の意味はその人によってもち違い、日によっても、時間によっても、場所によっても違うのです。
その時その時、今ここでの最善の意味を人間の自分の「良心」で発見して、生きていかなけらばならないのです。
これが精神的次元上昇への道に繋がるのです。
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