ココがポイント
伝統は崩壊するものです。
しかし、本当の伝統は心の中にあります。
伝統は崩壊するもの
良心による普遍的価値の創造
遠い昔、人間は偉大な自然の力の中に畏敬の念を表す「神」を見出し、そしてその「神」を敬い、それぞれの地域の伝統を作り上げ先祖代々伝わるの「儀式やお祭り」など伝統行事として神を崇め奉ってきました。
しかし、今現在科学技術の時代になり、人間は科学技術により、人間は神の存在を蔑ろにするようになってしまいました。
人間には意識しようとしまいと、良心というものが存在します。
アウシュビッツから奇跡的に帰還したV・Eフランクルは、
・・・良心は超越の声であり、その限りにおいてそれ自体超越的なのである。非宗教的なのである。非宗教的な人間とは、この良心の超越ということを認めることのできない人のことにほかならない。というのは、非宗教的人間も良心は「もっている」のであって、非宗教な人間も責任はもっている。彼はただそれ以上問いを進めようとしないだけなのだ。つまりそのような人は責任が何に対するものななのか、また良心が何に由来するものなのかを問おうとしないのである。
識られざる神 みすず書房 新装版 V・E・フランクル p66
と述べています。
つまり、良心は超越者である「神」の声であり、宗教的な人間も、非宗教的な人間も、意識しようとしまいと、その「神の声」である、良心の声を聴いて自分の行動の、判断基準としているのです。
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ここに人間が知る由もない「識られざる神」がいたのです。
知られざる神
昔の人々はこの自分自身の良心を信じ普遍的な価値を築いてきました。
そして、祭りや年中行事を伝統として先祖代々継がれてきたのです。
人間の良心の背後には「識られざる神」が存在し、人間の「良心」と、その「識られざる神」と対話の中に「普遍的な価値」が無限大に存在しているのです。
その「普遍的な価値」を自分の良心に常に問いかけ価値を見つけて、新しい価値を作り上げ、新しい伝統を作り上げていかなければならないのです。
ウイキペディアでは伝統とはとぎのように述べられています。
伝統とは、古くからの仕来り・様式・傾向、血筋などの有形あるいは無形の系統を受け伝えること、民族や社会・団体が長い歴史を通じて培い伝えて来た、信仰、風習、制度、思想、学問、芸術、あるいはそれらの中心をなす精神的あり方などのことをいう。様々な分野において、様々な由来の様々な伝統が存在する。
ウィキペディア
伝統には、よい伝統と、悪しき伝統とがあります。
よい伝統は人間の良心が生み出したものであり、悪しき伝統は間違った良心による伝統なのです。
人間は悪にも善にもなれる存在です。
フランクルも次のように述べています。
・・・この人間とはどのような存在なのでしょうか。人間とは、どんなときでも、決断する存在なのです。人間は、自分がどうあるか、自分が次の瞬間のどうあるべきかを絶えず決断するのです。人間には、天使になる可能性もあれば、悪魔になる可能性もあります。
意味への意思 V・E・フランクル 春秋社 p130
人間は悪しき良心によって悪しき伝統を持つこともありますが、それを正すのも実は、人間の良心なのです。
私たち人間はこの悪しき伝統を正し、良き伝統を創造していかなければならないのです。
良き伝統の創造
私たち人間には悪しき部分があることは、過去の歴史から明らかです。
人間は悪にも善にもなることが出来る自由が「神」から与えられており、人間は「神」が人間の良心に常に訴えかけてくる言葉をよく聴いて「行為」の判断に役立てなければならないのです。
「良き伝統の構築」はこの神からの訴えかけをうまく聴きとることが出来るかどうかがにかかっているのです。
このことは、難しいですが、決してできないわけではないのです。
それは、人間各個人個人の日々の精神的次元の鍛錬によって、悪しき精神状態を正すことが出来るのです。
良心の呵責
さて人間には「良心の呵責」ということがあります。
「良心の呵責」とは自分が悪いことをした結果、その行為に対して罪悪感を覚える、という人間の心の反応というか、良心の反応のことを言います。
これは良心が神の声を聴いて、自分自身の思考や行動を悪いことであると反省していることの反応なのです。
そこには最善なる神の導きもあるのですが、これに気付ける人間なら、まだ救いようがあるのですが、まったく無反応な人間や逆に悪くなる人間もいるのも確かです。
しかし、一人の善良な人間の言動や行動が、波紋を呼び、無反応な人々の模範となることは出来るのです。
自分良心の声を少しでも間違っていると直感したら、その言動や行動を少しづつ修正し「最善」へと導くことが、良心の声を聴く人間の責任なのです。
つまり、善良な人間になるためには、自分が悪にもなる可能性をあることを自覚し、自分自身を良心の呵責によって、自分自身を正していかなければならないのです。
伝統は変遷していくもの
伝統は移り変わっていくものです。
たとえば、ある時代の宗教儀式で生贄の伝統が続いていたとします。
生贄の儀式というのはマヤ文明、アステカ文明、テオティワカン文明などで、実際に神に対する生贄の儀式が行われていたことが解明されています。日本においても、人身御供といった神社の伝説があります。
この生贄の儀式をある特定の人物が自分の良心の問いかけて、こんな伝統はおかしいと思い、ある、行動を起こしその行動によて、波紋が広がり、伝統の生贄の儀式が徐々に変わっていき人間ではなく、穀物等の奉納に代わってしまった。という伝統の変遷があったと思われます。
これは、ある一人の人間が生贄という儀式に、疑問を持ち、自分の良心に従い、宗教儀式に疑問を持ち、その人間の行動や言動が波紋となって、画期的な革命が起こり、生贄という伝統儀式が排除され、生贄の儀式もなくなっていったのです。
伝統も人間の良心によって変遷していくものなのです。